前半
ジャニス・ジョップリンを聴いた日
  国分寺駅の改札を出ると、徹の傍らで京子が「キッキッ」と甲高く笑った。
  クックッでもなくフッフッでもなく、それは京子自身が言うところの“気分が最高にいい時に自然に漏れてしまうシグナル”いわく“小猿笑い”であるらしかった。
  見るからに暇そうな何人かの男たちが、その小動物の声音のような奇声に振り向いたが そこにいるのがカップルだとわかった途端、“勝手にイチャついてろ”とあからさまに棘のある表情を見せ、舌打ちしながら足早に立ち去って行った。
 京子は上目遣いで斜めに首をすくめ、今度は徹にだけ聞こえるように、小さな声でもう 一度「キッキッ」と微笑んでみせた。
 徹にはそんな京子のひとつひとつの動作がたまらなくまぶしかった。
 158cmの身長、豊かで上品な胸のライン、長い髪、よく光る黒い瞳、幼児のような 肌のきめ、プクリとよく締まった形のよい唇、丸い尻、リーバイスのストレートジーンズ にダッフルコート。
 どれひとつ取ってみても眩暈がするほどにまぶしかった。目をまわしながらでも見つめていたかった。京子の横にいるだけで自分まで輝いているような得意な気分になった。
 しかし言いかえれば、それぐらいのことしか京子について知らなかったのだ。見えている京子しか知らなかったのだ。初めて口をきいた日から、まだ5日目だった。
「とうとう来ちゃいましたね、ト・オ・ルくん!」
 3歳年下の京子が徹をクン付けして意味ありげに怪しく言った。
 徹は一瞬息をのんだ。自分のことをいつもそう呼ぶ“別のだれか”に呼ばれた気がしたからだった。抑揚のせいか声まで似ているような気がした。
“他に恋人がいること”が京子とつきあうための条件でもあったから、もちろん隠すこともごまかす必要も無いのは十分にわかっていたが、悲しいかな徹は咄嗟に何事もなかったようにしかめ面を作ってその場をつくろい、不自然に京子の小猿笑いを真似ておどけてみせたりしたのだった。
「そうか〜、いつも“トオルくん”って呼ばれてるのか〜、ト・オ・ルくんは〜」
 京子は妖艶に、けれど少女のように悪戯っぽく、そしてまたつくづく心の底から嬉しそうに言った。
 

「いつもはバスじゃけんね、歩くとけっこうあるけんね、……?」
 南出口へつながる階段を下りながら、京子は言語スイッチを素早く切り替え、徹の足元
と気分を気遣うように言った。
 大学のある「鷹の台」で食事をすませ、すぐに京子の部屋へ向かう予定だったのが、ついつい盛り上がりすぎて遅い時間までかなりの量の日本酒を飲んでしまっていたのだ。
 徹とまったく同じペースで京子も飲んだはずだったが、京子の方はほとんど酔っていな
いように見えた。
 しかしその日の酒は徹にとっていつにも増して明るい酒だったようで、善玉アルコールがほどよくフラッシュバックし、もともとは朴訥とした徹を再び饒舌にした。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、歩けるス。けど、着いた途端に眠っちゃうかも知れんな あ、立たんかも知れんしなあ……ハハッ」
 徹は顔の赤味をさらに濃くして戯言を言った。
「そりゃ〜困るけんの〜お客さん、約束がちがうけんのう〜」
 京子もざれ返した。
「よっしゃ〜、ハッスル、ハッスル、わしゃ〜朝までガンバッてみせるけんの〜」
 徹はふとそんな風に京子の“ごちゃまぜ方言”を真似てみようかと思ったが、さすがにそれは少々下品過ぎるような気になって口に出すのはやめてしまった。それにそれ以上ふざけていると会話だけが盛り上がり、京子の部屋もそこでのスウィートタイムも果てしなく遠くなってしまうような気もしたのだった。
「行こう行こう、歩いて行きます、サクサクッと行くぞ、ほらほらっ!」
 徹は京子の背中を押した。
「トオルくんはジコチュウじゃけんの〜、ほんまにの〜」
 京子はその時々で、もどきではあったが日本中の方言を使い分けた。
 大阪、京都、名古屋、九州、と毎日変わった。当たり前だがそれは彼女の出身地とは無
関係のようだった。そしてその日は広島あたりにいる?ようだった。
 徹は京子のそのおかしな話し方が特に好きでも嫌いでもなかったが、一度、京子と仲のいい女友達にそのことについて尋ねたことがあった。
 彼女は人差し指で頭の横をツンツンとつつき「ちょっとネ」と片頬で笑い「最後まで大事にしてあげてよ〜、関口さんみたいなのは辛いからね〜」と語尾を少し持ち上げて分別 くさいオババのようなことを言った。関口さんというのは、夏休みの間に自殺してしまっ た同じクラスの女の子のことだった。
 京子がどういう心理状態の時にその“ごちゃまぜ方言”を使っているのか徹にはさっぱ りわからなかったが、小猿笑いと同じように、気分のすこぶるいい時のサインのようでも あったし、奔放にはみえても案外彼女独特の照れ隠しなのかもしれないなあ、ぐらいには 気になっていたのだった。
 事実、徹自身もそれを真似てみると、キザな台詞でも、かなりいやらしいことでも平気で言えたし、なににも増して京子の容姿とその“ ごちゃまぜ方言 ”のギャップがありすぎるためか、いつでもその場が明るくなっていたのは確かだった。
 ひとつだけ気になることといえば、京子が明るいのは喜ばしいことにちがいなかったが、少しだけ、ほんの少しだけ明るすぎるような気がすることだった。
 2日ほど前、そしてあまり深く突っ込んで聞くことのできないような雰囲気でもあったのだが京子が自分の今の状態を“躁期”と呼び、赤白柄の実に派手派手しい薬を飲みながら言ったのだった。
「暗くならんようにしてるんじゃけんの〜、わしゃあ〜、一旦向こう側に落ちると死ぬより辛いんじゃけんの〜」
 京子は菅原文太よりもさらに派手目に下唇を突き出して言い、そして高笑いした。
 徹は、京子の明るさはその薬の“せい”、いや“おかげ”なのかもしれないと思ったのだ。そしてもしかすると、京子と自分が付き合うことになったのも実はその薬の作用なのかもしれない、とそんな風に思ったりもしたのだった。
「あれこれ詮索しすぎると辛くなるだけだぞ、あまり深入りすると悲しくなるだけだぞ」
 徹は自身の心の中に住む冷酷な方の神の忠告を聞きながら、自分が京子のそばにずっと いられるのなら、薬なんか飲まなくていいぐらい思いっきりやさしくしてもあげられるんだけど、とそんなことも考えたりした。
 二人が最後の客になってしまったのか、駅ビルから完全に外に出てしまうと、まるでそれを待ちかねていたように、鉄格子のようにも見える巨大なシャッターがキュルキュルと音を立てて下りて来た。
「もう、あとへは戻れんぞってことだね、ケ・イ・コくん!」
 徹の芝居口調に、京子は「フ・ム・フ・ム」と声に出して言い、頷いた。
 京子は徹のコートのポケットに自分の手を滑り込ませ、徹の親指をつかんだ。
 徹は京子の指をそっとほどき、手のひらがもっと広く合わさるように組みなおして強く握った。
 京子は「キッキッ」を連発し、体を徹にあずけるようにしてゆっくりとロータリーの方 へ歩き出した。


 最終電車が終わったせいか駅前繁華街はあっけないほどにあっさりと灯りを落とし、タクシー乗り場のあたりにひとかたまりの熱を残しただけで、街はこれから正しく眠りに入ることを宣言するかのように急激に静まりかえりつつあった。
 まだ11月になったばかりだというのに、レンガ敷きの歩道の上をプラタナスの枯葉がカサカサと音を立てて走り、サラリーマン風の酔っ払いは身震いをひとつして身を引き締め、わざとらしい千鳥足を止めてそそくさと街角の闇に消え去っていった。
 徹は、ニューミュージックの歌詞のようだと自嘲しつつも、まわりから見れば自分たち は
「女のアパートに向かおうとしている仲のいいちょっと飲みすぎた恋人同士」に見えるんだろうなあ、と思った。
 京子はときどき徹の顔を覗き、徹はそれに応えるように短いキスをした。キスをするたびに風になびいた京子の髪が徹の頬に触れた。
 京子の髪は思いがけないほど冷えていて、そのことに少し驚きをおぼえた徹は何度か顔
を軽くうずめてみた。どこかで嗅いだことのある懐かしい冬の匂いがした。
 大学受験で田舎から東京へ来た初めての夜「自由だ、おれは自由だ」と言いながら街を
徘徊したことがあった。あの夜と同じ匂いだ、と徹は思った。
 何度か下りたことがある国分寺駅だが、自分が足を運ぶのはせいぜい北口広場周辺にある大学指定の画材屋や輸入盤を扱うレコードショップぐらいのものなので、慣れない南口に出てきてつい初めての街に来たようにセンチメンタルになってしまったからなのだろうなあと徹は妙に理屈っぽい順序立てで匂いについての法則というようなものをボンヤリ 考えたりしたのだった。
「これこれ! また何か考えてるんでやんすか? ロダンくん、あちきにはお見通しでやんすよ、考え過ぎは体に毒どすえ」
 今度は花魁ことばだ。ロダンくんというのは“考える人”の意味にちがいなかった。
 京子の不思議言葉を徹は笑いながら強引にキスで塞いだ。
「キスすればいいってもんじゃありませんよ、ト・オ・ルくん」
 京子はほんの少し機嫌をそこねたような口調で言った。ポケットの中では指をからめたままだったが、徹の“考えごと”を京子は好きではないようだった。
 街灯のほとんど無い住宅街を、クネクネと何度も曲がりながら通り抜けると、やっと片側2車線の幹線道路へ出た。午前1時をとっくに過ぎて、50mほど先の交差点では信号 があくびをしながら黄色の点滅を繰り返していた。もう40分は歩いていた。
 アルコールが抜けていく甘ったるい疲労感の中で、徹は「歩くとけっこうあるけんね」 というのはこれだな」と不用意にため息をひとつついた。
「交差点を渡ったら、すぐだから」
 京子がいくぶん悲しげに沈んだ声でそう言った。
「けっこうあるね、この道順じゃ、おれひとりでは二度と来れんなあ」
 ポケットの中で京子の指が一瞬微妙に硬い動きをしたような気がした。
「うん」
 京子はそれだけ言い、その後なんとなく黙り込んでしまった。
 徹はため息を謝りたいと思いながらも、そのタイミングを逸してしまった。京子のよく 意味のわからない「うん」の方が気になったからだった。
 それは「あなたの方からは訪ねて来ないで」のようでもあり「今日だけだから」の意味 にもとれる気がした。


 疑う気持ちなど微塵も無かったが、広告代理店に勤める兄と一緒に住んでいる、というのは本当のようだった。
 玄関に京子の姓と同じ姓を書き込んだ男物の黒い革靴があったからだ。
「靴に名前を書き込む男とはどんな男なのだろか」徹は京子の兄を想像したが、すぐにどうでもいいことのような気になって止めてしまった。
 京子自身は“アパート”と呼んでいたが、その住まいはコンクリート造りのなかなかに 立派な4階建てで、二人が暮らす部屋は2階の南側の角にあった。
 ドアの正面に短い廊下があり、すぐ左にダイニングキッチン、突き当たりに6畳の部屋 が並んで2つある、といった間取りになっていた。
 廊下の右側はトイレとバスで、そのあたりにはかすかに白檀の香の匂いが残っていた。
「兄貴がインド狂いなのよ」と京子が言った気がしたが、どんどんひとりで中に入って行 きながら言ったことなので、徹はあいまいに「ああ」とだけ答えた。
 京子の部屋はダイニングキッチンと引き戸1枚隔ててつながっており、戸を開けてしまえば10畳ほどの広さになった。
 隣の兄の部屋に隠してしまったのか、服や化粧品など女の匂いがしそうなものが一切見
当たらず、少しゾクッとおそろしい気分になるぐらいきれいに片付けられていた。リノリ ュームの床のせいか、どこか小さな事務所のようにも見えた。」
「オフィスチックなのがいいでしょう? ベッドにすればすぐに寝られるんだけど、絵を 描くスペースが無くなちゃうから」
 京子がごく普通の口調で言った。
 1ヶ月前まで大学の女子寮にいたけど、窮屈な規律と45歳になる処女かもしれない寮 長が嫌で兄貴の部屋に転がり込んだのだ、ということを、前にも話していたのにまたそっ くり同じように話した。
 隣人に気を遣っているらしく、京子は蛇口を力でおさえつけ、水音を殺しながらキッチ ンの方で何か飲み物を作っているようだった。
 京子の部屋の壁際には、ちゃんと窓からの光が左光線になる位置に中型のH型イーゼル が置いてあった。徹などには高くて買えない憧れのイーゼルだった。そしてその上には見
覚えのある15号の油絵の自画像が乗せてあった。
 それは実物とは似ても似つかないほど醜く描かれたもので、学園祭のクラス展に先日ま
で飾られていたものだった。
 二人が話すきっかけになったのもその自画像だったな、と徹は感慨をおぼえた。
 さんざん見たつもりでいても、そうして京子の部屋で場所を変えて見ると、また別の絵に見えたりすることが、また徹を“ロダン”にしていまいそうだった。
 ウイスキーの水割りを徹の前に置き、京子は襖を引いて兄の部屋に入って行った。小さ
な音量だったがギターのカッティングに乗って、喉を絞るような女の歌が流れてきた。
「ジャニス・ジョップリンだよ」と、京子が言った。
 京子はジーンズを脱ぎ、兄のものらしいダブダブのTシャツ1枚の姿で、徹の横の冷たいリノリュームの床にペタンと座った。