後半
ジャニス・ジョップリンを聴いた日
「お前は〜、あんなに醜くないぞ、な、みんなもそう思うだろ!」
徹は京子の自画像について熱弁をふるっていた。ベロベロに酔って京子の肩に腕をまわ
す徹を悪友浪人組がさらに囃し立てた。
クラスの飲み会にもほとんど顔を出さず、まさしく堅物と思われていた徹のその酔いっぷりを、回りは驚きながらも大いに面白がっているようだった。
西武国分寺線沿いにある、徹と京子が通う美術大学では毎年11月の頭に芸術祭という名で学園祭が行われる。
徹と京子は油絵科の同じ1学年クラスに在籍していた。学年は同じでも、現役入学者も
一浪も二浪も、中には五浪などというつわものもいて、それがすべて一緒なのだ。いつも
はまったくまとまりのないクラスだったが、学園祭など遊びの要素が強い行事になると、
浪人組を中心に一気に盛り上がりをみせるのだった。
そしてクラスはその年「自画像展」と「模擬店(焼鳥屋)」をやったのだ。
2年生以上は自由参加ということだったが、1年生は強制参加であり、はじめ徹はどちらかというと渋々参加していたのだ。そして京子の方もまた同じく消極派ではあった。
11月1、2、3日の本番の前に4日間の準備期間があったが、手先の器用さと自炊仕込みの手際のよさで、徹は次第に模擬店準備に欠かせない存在になっていった。自身も楽
しくなり、結局は全日程出席するメインのメンバーになってしまった。
そして、徹はその準備期間の最終日に京子の存在を意識したのだった。
気が付くと必ずそばに京子がいた。食材の調達や料理の仕込みをグループで分担する時
も、京子はちゃっかり徹と同じグループにもぐりこんでいた。
模擬店は初日から大盛況で、徹の仕込んだ焼き鳥のタレは他店のそれよりすこぶる評判
になり、当初の予想の倍以上を売り上げた。
いつのまにか徹はクラスのヒーローになり、一晩に300本の串を焼き、夜遅くまで次の日使うタレの調合をした。
クラス中に熱気がみなぎり、模擬店の売上金は学外の画廊を借りてまた別のクラス展を
企画するというのが通例になっていたが、だれひとり本気でそうするつもりもないようで
1日の終わりには模擬店は仲間内だけの飲み屋と化したのだった。
そして京子はクラスの同姓たちからの軽い軽蔑にも似た視線を微塵も気にすることも無
く、連夜徹の膝に乗ったりした。
学園祭の最終日、模擬店でのいつもの内輪の飲み会はピークに達していた。所場代を学
部の実行委員会にピンはねされるぐらいなら、儲けた分をそっくり自分たちで飲んでしま おうという勢いだった。
そしてそんな狂騒の中、徹と京子は抜け駆けした。
徹は京子を肩車し、サッカーグラウンドの芝生の上を走り回った。すでに冬の夜気を帯びた武蔵野の透き通るような空気の中に京子の嬌声が響き渡った。
アルコールは一気に脳の隅々までゆきわたり、担ぐ方も担がれる方も朦朧となりながら空気よりさらに冷たい枯芝の上に音を立てて倒れこんだ。
抱き合ったままゴロゴロと地面の上をころがり、そして突然電池の切れた玩具のように静かに止まった。
京子は背中にまわされた徹の腕をふりほどこうと四肢を突っ張り、ほんの一瞬できた隙間からすばしっこくすり抜けて、徹の上に馬乗りになった。
「3ヶ月間、期・間・限・定!」
京子は夜空を仰いで、歌うようにビールのコマーシャルのようなことを叫んだ。
徹は京子がどんな表情をしているのか見たいと思ったが、馬乗りになっている京子の顔は背景の夜空より少し青みがかった暗い色で、ぼんやりとしたシルエットでしか見ること
はできなかった。
笑うまではいかないにしても、微笑んでいるらしいのは声の調子からわかった。かとい
って冗談で言っているのではないこともその息遣いから徹にはわかった。
「徹が好きだよ、だけど恋人がいるよ、離れたところに。来年、彼はこの大学に入ってくるよ。だから徹とは3ヶ月間だけだよ、彼はどうしても赤い糸なんだよ」
京子の声が途中で何回か裏返った。そして深呼吸も2度ほどしたようだった。出しなれない大声のせいかもしれなかった。徹はさらに朦朧としたまま京子の話を聞きつづけた。
ポイントになる部分を言い切ってしまったからか、その後の京子は落ち着いた声で“いつか結ばれる男女は小指と小指が赤い糸でつながっている”といった、いわゆる赤い糸伝説の話を、まるで中学生のように無邪気に語った。
けれど京子のそれが世間一般のそれと決定的に違っていたのは“赤い糸で結ばれている
男女は途中で浮気や、不実な裏切りなど、たとえどんなことが色々と起きようが、最後にはやっぱり結局その男女が結ばれる定めにあるのだ”という意味にとらえているところだった。
「徹にも離ればなれの恋人がいるんでしょう、いつも写真を持ってるらしいってみんな言
ってた、きっと彼女は赤い糸だから、私のことは黙ってれば大丈夫だよ」
徹は急に現実に引き戻された気がしたが、なぜか重い気分にはならなかった。それどころか、眉唾な“赤い糸伝説”の話も京子のような解釈をすれば、なかなかに生臭く、現実
的、かつ人間的で、それはそれで違った意味の夢があるような気がしたのだった。
「けっして結ばれることは無いのに、どうしても出逢ってしまう運命にある男と女はさ、青い糸でつながっているらしいよ」
徹はまったくその場の思いつきで作り話をしたつもりだったが、京子は嬉しそうに「そう、それそれ!」と言った。
「どうして京子はおれを選んだのだろう?」
徹にとっては是非とも聞いておきたいところではあった。
京子はそれにはすぐに答えず、逆に「契約は成立?」と聞き返した。徹があいまいにうなづくと、それまでの馬乗りの姿勢をくずして倒れこみ、また徹と胸を合わせた。
京子は徹の耳たぶを唇で弄びながら言った。
「恋人が別にいそうなこと。あまり深刻に考えない性格でありそうなこと。別れたあとに
しつこくしなさそうなこと。そして誠実な人そうであること」
すべて「……そうな」というところがいかにも京子らしい言い方だった。
徹は京子の答えを聞きながら、最後の誠実な人そうで云々という部分では大声で笑いかけてしまった。が、自分という人間が、京子にはそのように見えたということについては、何と言っていいのか、怒れず、笑えず、不思議な気分になってしまったのだった。
「他に恋人がいるのに、別の女と恋をする男は誠実なのか?」
「……、そういうことじゃなくて……、そういうことはどうでもよくて、3ヶ月間でも真剣な気持ちになってくれる人かどうかって意味ですよ」
京子はデスマス調でしめた。そのせいかどうかは分らなかったが妙な説得力があった。
常識的に考えれば、京子の方こそジコチュウのような気もしたが、徹は自分がすっかり京子のペースにはまってしまっているのを自覚した。
逢えない恋人の代わりを求める気持ちなどもともとあるはずもなかったが、野生のよう
な奔放さ、柔軟性と表裏になった意外性、は魅力的だった。徹は京子に振り回されること自体を楽しいと思い始めていた。
来るあての無い何かを、じっと待つだけの澱んだ毎日をもっともっとかきまわして欲しい、振り回して欲しいと思った。
「どうしても思い出せない四文字熟語があるんだけど、目の前のものに心を奪われてしまって一番大切なものを失ってしまう……みたいな言葉が無かったっけ?」
徹は少し思わせぶりであてつけにも聞こえるような質問を京子に投げた。
「目の前のものは大切だよ!」
徹の質問が終わるか終わらないかの内の即答だった。京子は何ひとつ迷うことなくあっ
けらかんとした表情でそう答えた。
あっぱれだった。京子の答えに徹は100パーセント満足した。
大地の上で冷えきってしまった自分の背中と感じながら、徹は目をつぶって京子のコー
トの中に手を滑り込ませた。
モヘアのセーターはたっぷりと京子の体温を蓄え、徹はそのぬくもりの中で指を暖めな
がら遊ばせた。中指と薬指を小人の足にみたてて、歩くテンポで京子の背中から尻にかけて続く、ゆるやかでやわらかな丘を何往復も上り下りさせた。
京子は乾いた唇を徹の唇に触れさせ、吸うでもなく押し付けるでもなく、すれすれの距離を保ちながら小さな声で甘えるように言った。
「あさって、出張で兄貴がいないよ、うちに泊まれるよ。ちゃんとしようよ」
ちゃんとしようよ……、それはセックスのことらしかった。
京子の作った水割りはほとんどロックに近いものだったようで、薄暗闇の中で一気にそれを飲み干そうとした徹は思い切りむせてしまった。
京子は徹の背中を叩き、さすって気遣った。そしてそれが潮となり、徹と京子の体は、氷の枷が風のひと吹きで外れるような唐突さで、急速に親密度を増していった。
徹は京子のすべてを手のひらで確かめた。
目の前のものは大切だよ、と言った京子のことばを思い浮かべながら、少しずつ上昇してゆく京子の体温に、もろもろすべてのことをそれらの形がわからなくなるまで溶け込ませてしまいたいと思った。
「あたしは京子だからね、途中でほかの名前で呼ばないでね」
京子はいたずらっぽい笑みを浮かべてそう言った。
「お互いにな」と徹は腰を突き返した。
「今度、彼女とする時も京子って呼んじゃだめだよ」
徹はそれには何も答えなかった。
京子がそのようにセットしたのか、隣の兄の部屋でオーディオ機器の小さな機械音がして、音楽ははじめの1曲目に戻ったようだった。セックスのBGMにエンドレスで流すにはヘビーだな、と徹は思ったが、そんなことももうどうでもいいような気がした。
「あんまり深刻に考えない性格でありそうなこと」か、徹は京子が自分を選んだ条件をもう一度思い出した。
「それはちょっとハズレだぜ、京子くん」
徹は胸の内で芝居口調で思った。
けれど、そういう風に見られたことは、少しは自分が変わってきたということで喜ぶべきかもしれない、陰気に見られるよりまだマシなのかもしれない、とボンヤリ思った。
「黙っていれば大丈夫……か、幸せになるためのキーワードだなあ」
徹は心の中でひとり笑った。
しかし徹の中に妙に確信めいたものがあるのもまた事実だった。
自分は本来の性格からして、結局は京子とのことを近い将来、いや、おそらくすぐに恋人に話してしまうだろう、ケジメという名の身勝手な別れを乞うだろう、そしてそのことでは多くの友人たちを失い、先方の親や自分の親たちからもそしりを受け、そして今後ずっと恋人を裏切ったことから逃れることができないこともわかっているような気がした。
裏切られることより、裏切ったことの方がこの先ずっと記憶に残り続けるのだろうと想像がついた。
そして来年の4月になれば、京子は“赤い糸”と腕を組んで学内を歩き、自分はその姿を見るたびに嫉妬し、あとをつけ、殺してしまおうと思うかもしれない。しかし結局は何も起こせずそしておそらく何をかはわからないまま、ほとんど永遠に後悔するのだろう思った。
「しばらくは騒々しい日が続きそうだ」
徹は考えながら、しかしそれらのことは目下のところ別のところに置いておこう、今は意志をもってそれらのことから逃げてしまおう、と思った。
今、目の前にいる京子に罪はなく、すべては自分の問題なのだ、そしてそれらもすべて3ヶ月あとのことのであるような気もした。
「トオル」
吐く息と唇だけで出す京子のその声は、夏の虫たちの羽を擦り合わせる声に似ていた。
限られた時間の中で生きている虫の声のようにも聞こえた。
例の4文字熟語は思い出せず、それ以前にそういうおせっかいなことばがあるのかどう
かも相変わらずわからなかったが、シーツにくるまり、引いてゆく汗に震える京子を、徹
は心から愛しいと思った。
氷がすっかりとけたグラスの中は、ほんの少し甘い香りのする黄色味を帯びたただの水になってしまったようだった。徹はそれを一口音を立てて飲み込み、再び柔らかい京子の余熱の中に入っていった。
耳の奥のさらに奥の遠いところで、ジャニス・ジョップリンが「いっしょに行こうよ、もっと遠いところへ行こうよ」と喉を絞って歌っていた。