メネデール
ケハエール
セノビール
チトマール
いずれもよく効く薬だよ
08年6月30日(月)「 種蒔き 」

 午前中に母を訪ね、イヤホンとコーヒーのドリッパーを届ける。首を寝違えてしまったらしく亀のような動きなので笑ってしまった。本人は「癌が首に転移したんじゃないか」と必要以上に気をもんでいるので「毎月検査を受けているのだから、死ぬか生きるかは来月はっきりするべえよ」と突きはなす。ムッとしたらしく、キッとわたしをにらみフンとすねたはずみで首が回った。
「あら? 治ったわ」とか言っている。自分の母親ながらなかなかイケてる婆さんである。
 老人と話していると最後は必ず病気の話題になってしまう。「もう覚悟ができているのでお迎えはいつ来てもいい」と言いつつも、痛いのは嫌だ・ものが食べれなくなるのは嫌だ・ボケるのは困る・下(しも)の世話をかけるのは忍びない……などと要求が多い。どうせ老人は病気になるものなんだから、そういうの以外の楽な病気は無いものかしら? ということなのだろう。それこそが一番贅沢な要求である。どこか病気じゃないと仲間外れにもされるらしい。病院も好きだ。病院の待合室での笑い噺で有名なのがあるじゃないですか。
「○○さんは最近めっきり姿を見かけないわねえ」
「そうねえ、病気でもしてんのかしらねえ」

 母は新聞の切り抜きをホレと投げた。新たに得た情報を、とにかく他人にも話したくてしかたが無い様子である。“男の更年期”とあった。
「あんたはいくつになったな?」
「来年、還暦じゃな」
「……? 嘘を言いなさんな、まだ54ぐらいじゃろうが、偉そうに」
 偉そうに、というのがいい。母に言わせると、還暦を迎えたあたりからがやっと男の一丁前ということらしい。言われてみるとそんな気がしないでもない。威張っている老人は好きだ。
「更年期っちゅうのは性欲とかが一番先に無くなるらしかな。あんたはどうな?」
 見事な直球である。母は、わたしが芸能界にいた頃相当に多情・多感・変態・助平・淫乱の限りを尽くしたと誤解している節があって、わたしが結婚する時など「身辺をちゃんと整理したか?」と聞いたぐらいだ。まったく、わたしぐらいノーマル(?)な人をわたしは他に知らないぐらいなのに……。
「まあなあ、“シシリアの種馬※”と呼ばれた頃に比べれば、最近は有るのか無いのか自分でもよくわからんが、やっと普通になれたんじゃないんかなあ。来年は還暦じゃからなあ……」
(※たしか「ロッキーT」でそんなフレーズがあったような……)
 耳もよくないし、どうせ分からないだろうと、茶化し気味にわざとはぐらかした答え方をしてしまったので、母はわたしがもう100%インポーテンツになってしまっていると決めつけてしまったようだった。
「やっぱり抗癌剤のせいで子種も無くなったんじゃろかなあ、可哀想になあ。奥さんも可哀想じゃ。もう一人ぐらい子供も欲しかったじゃろうになあ。種蒔きしても芽が出らんと分かっていたんじゃ、種蒔きの楽しみも無かもんなあ」
 芽が出なくても種蒔きそのものは楽しかぞ、とからかおうかと思ったが面倒臭いのでやめた。それに……、それ以上母親とその手の会話を続けると本当にインポーテンツになるような気がして下半身が縮んだ。
「まあ芽が出らんちゅうことは、隠し子とかもおらんちゅうことで良かったなあ」
 何が良かったなあだ。まったくふざけた婆さんである。“男の更年期”はどこへいったんじゃ。腰痛(椎間板ヘルニア)の特効薬を教えてくれるんじゃなかったのか! 結局からかわれたのはわたしの方、ということになってしまった。

 妻に話すと大いにゲラゲラ笑い、洒落のつもりか自分が使うつもりで買ってきた“種蒔きポッド”を2個わたしにくれた。庭のある家にいつか住むことがあったら……という気持ちで、わたしが鹿児島の実家にあった時計草の種などを後生大事にしまい込んでいるのを知っていてのことだ。それらを発芽させてみたら……? という提案なのである。わたしは“垣根の 垣根の 曲がり角(焚き火)”のメロディで“種無し 男の 種蒔きは 数撃ち 決め撃ち 腰の技…”と悪乗りして歌った。妻は軽蔑してシーッと言い、慌てて窓を閉めた。
 メネデールという薬を買ってきた。“芽根出〜る”の意味、すなわち発芽発根促進剤である。安易なネーミングの割に今も堂々生き残っているということは本当に効くのだろう。(ケハエ〜ル、セノビ〜ル、チトマ〜ルなどもよく効くらしいね)じっくり一晩ぐらい100倍溶液に浸けた方がベストなのだろうが、せっかちなもんだから3時間浸けただけで種蒔きポッドに蒔いてしまった。水遣りもメネデール溶液でカバーすれば何とかなるだろう。いいかげんだなあ。
 さしあたって鹿児島の時計草とムベと朝鮮朝顔を蒔いてみた。鹿児島の時計草だけは、もう15年ぐらい経ってるのでちょっと望み薄ではあるが、なんとか老齢にムチ打って頑張ってもらいたいものである。この3種とは別に巨大な実のプルーンの種も庭に直に蒔いた。さてさて楽しみではある。

 夕方になってから2時間ほど鳥の写真を撮りに出かける。裏山の薮の中に誰の家のものとも分からない大きな梅の木があって、木の下には落ちた梅の実が無数に散らばっていた。梅酒にでもすればけっこうな量が作れそうなのに誰も採らないのであるらしい。ふと見ると、背丈30mほどの実生苗も数えきれないほど生えている。去年落ちた実から芽生えたものに違いなかった。
 下草に埋もれて発芽した境遇と葛藤しながら、少しでも多くの光を吸収し早く大人になりたいと背伸びしながら生きている感じである。夕日に照らされて感動は増幅される。風の中の孤独だ。一瞬、その姿がなんとなく“隠し子”のイメージと重なった。
 わたしはその中の1本を丁寧にやさしく抜き採り、そして持ち帰った。




               




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