僕たちは、決して3月11日を忘れない
2011年3月11日(金)「 それぞれの3.11 」

14:46 20階建てビルのB1Fで勤務中。震度5弱。地下でも横方向に10Cmほどの振幅があったような気がする。ビルのきしむ音がすさまじい。
「小林さん、とうとうきましたねえXdayが…」仕事仲間のTが鉄扉の枠につかまりながらギョロ目になって野太い声で妙に冷静につぶやいた。
「ここが俺の死に場所か」と揺られながら思った。別段嫌だとか、悔いが残るとか、生きのびるために逃げよう、とかそんな感情はまったくわいてこなかった。どうあがいてもここは運河と30mしか離れていないのだ。津波や液状化のことを考えると、カナヅチのわたしが生き残る可能性は限りなく0%だ。「ま、ここでもいいな…」と思った。

15:00 中央防災センターのスローなアナウンスが腹立たしかった。わたしも防災業務に従事する一員だ、そういうマニュアルなのは十分承知している。が、もう少し早くしゃべっても「このビルは耐震構造になっています」のは分かるだろう馬鹿が、と思う。同業者同士で悪口は言いたくないが、一刻を争う非常時にはもっと臨機応変であるべきだ、とくだらないことだとは思いつつ真剣に怒ったりした。
ざっと周辺を走り回り、怪我人がいないのを確かめ、開いた防火扉を閉めてまわってB1Fの詰め所に戻ると「かなりの大きさの津波の発生が確認されました」とテレビで速報が流れていた。

15:30 エレベータを吊っているワイヤーがビシッビシッと不気味に鳴っている。もうだいぶ時間が経っているはずだったが何度か小さな余震があったようにも思えた。避難警報のスローなアナウンスとのリズムの違いがとても不気味な雰囲気を生み出していた。もっと大きな揺れが来るかも知れないという不安が辺りを支配していた。
わたしたちは、会社同士の契約で派遣されている1防災警備隊に過ぎない。直接の上司であるビル管理事務所がよりによって本日不在なのだ。自身の判断で最良の判断をしていかなければならない状況だ。そしてわたしは、一応ここの責任者である。怪我人を一人も出したくない、とふと思った。
ビルの在籍者約1000人の避難誘導にあたる。見知った顔が「耐震構造と言っているがビルはほんとうに大丈夫なのか?」と口々に尋ねてくる。が、そんなことは誰にもわからない。壁材がビシビシと細かくひび割れて、塗装片が非常階段に積もっている。骨組自体が曲がった所もあるようだ。亀裂の入ったコンクリート壁もある。2階の社員通用口前の天井からは漏水、滝のように水が流れ落ちている。耐震構造のビルはクネクネと動いて耐えるのでスプリンクラーなどパイプ類の結合部が切れるのだろう。水びたしだ。高層階では相当横に振られたらしく、気分の悪くなった女子社員4名を医務室へ。その他は幸いにも怪我人無し、エレベーター閉じ込めも無し。不幸中の幸い。入社1〜2年の若い女子社員たちが「コバさん、活躍してんじゃん!」と、ちょっと見直した感で可愛く言うので、まだまだ死んでる場合じゃねえなあと思ったりした。

16:00 警報が避難命令に変わった。1フロアずつ残留者の確認をしなければならない。20階まで階段を駆け上がる。痩せておいて良かった、と思う。会長も社長も役員も部長も課長も平社員もみんな非常階段を歩いて降りてくる。すれ違うたびに「まだ走れるねえ」などと声を掛けてくれるので止まる訳にもいかず、心臓がバクバクしたが完走。見栄も時にはパワーになるらしい。
あらかたの在籍者はすでに避難済みだったが、仕事熱心な人が多い会社なので声掛けをして回る。10階に1名、9階に2人、8階に1名。エレベーターは当分復旧しない旨を伝え、非常階段の場所を案内した。フロアのパーテーション類が倒れ、天井板が落ちた場所もある。被害状況も調査しながらの下降。震度4以上の場合、1時間以内に本部に連絡する決まりになっているが、今日は電話も通じなくなっている。なにもかもまったく糞食らえだ。倉庫内の棚が倒壊した階もある。手が付けられそうにないので無人を確認して放置した。
B1Fに戻ると東北の各地を津波が襲っているというニュースがテレビから流れていた。まだ映像が無いので実感できない。給湯器が警報を発したり、トイレの水が止まらなかったり、各階で大小のトラブルが続出し、結局非常階段を数回往復。

17:00 避難命令が解除になり、ゾロゾロと社員たちが戻ってきた。停電にはならなかったが、エレベーターは復旧の見込み無し。慎重な点検・調整作業をしてからでないと動かせないということだろう。
「本日はもう解散、速やかに帰宅せよ」という部署が多いようで、帰り支度の社員で非常階段がまたにぎわう。表情が先ほどと違い明るくなっている。JR他交通機関が止まってしまっているので、帰宅しろと言われてもそれができるのは近隣に住む人だけだ。タクシーもめったにつかまらない。大江戸線が動いたらしく、それを利用して徒歩帰宅に挑戦する、という猛者グループが手を振り笑いながら出発して行った。週末で良かったなあ、とやさしいジジイ気分になる。
自宅の娘から電話が入った。千葉緑区は震度6だったらしい。わたしの部屋の棚から数個の段ボール箱が降ってきたそうだが、人も犬も猫も婆さんも怪我なし。婆さんは寝ていて地震に気づかなかったそうだ。昔の映画で、電車内暴力サスペンスみたいなやつがあったが、事件の最初から最後まで車中で眠っている老人がいたことを思い出した。妙なことを思い出すものだ。
徒歩帰宅挑戦組が1時間ほどしか経っていないのに笑いながら戻って来た。根性なしめ。

18:00 JRが相変わらず止まったままであること、復旧のめどもまだ先であろう事を考慮して、この会社の総務部が「全フロア宿泊可」という決断を下した。帰宅途中での余震罹災を懸念した結果だ。最上階の大ホールを宿泊(横になって眠れる)所として開放。さらに毛布と簡単な飲食物が提供された。
携帯電話がかなりつながるようになったと聞いたので、“メル友若年女子”に安否確認のメールを送る。すぐに返信があった。半休で午後に退社後、品川駅のホームで揺れに遭遇したらしい。帰宅できなくなって歩いて引き返し、今ビルの9Fにいるという。パトロールついでに出向き、ヤアヤアヤア!となる。翌日出発予定だった沖縄研修がつぶれたことの方を残念がっていた。のんきなお嬢さんだ。
夜間の安全確保等に付随して空調、照明の手配等、また多忙に動き回る。女性専用のフロアを避けて、見回りも続行。階段で登るのがつらいのだろう、せっかく用意された宿泊所もほとんど利用者は無く、それぞれの職場のデスクでうつ伏せで寝ていた。しかし中には廊下にダンボールを敷き、顔の部分に照明避けの覆いまで付けたマイホームで眠るオヤジ(部長さんだった!)もいて、思わず「やるなあ」と唸ってしまった。

一睡もせず警戒待機、警戒巡回の繰り返し。外でしか喫煙のできないビルなので、深夜でも人の動きは絶えない。タバコ一服のために大変な体力を……偉いなあと思う。役員の一人が「2万人を超えるかもしれない」とわたしに耳打ちし喫煙所へ向かって出て行った。いくらなんでもそんなことはないだろう法螺吹きめ! とわたしは思った。
貨物用エレベーター復旧、翌12日の00:47  乗用エレベーター1台のみ復旧、翌12日の09:15
電車(JR)が動かない場合は路面バスを乗り継いで帰ろうと、半ば楽しみに覚悟したにもかかわらず復旧は早く、わたしは翌日10時に引継ぎを行い下番し、通常通りの所要時間で帰宅した。



(後述)
その後、震災の悲惨さが明らかになるにつれ「それぞれの3.11」などといった小物を書いてはならないような気がしていました。被災された方々のことを思うと胸が痛みますし、“対岸の火事”的な行為は絶対慎まねばと思いました。しかし、その日その時の自分の行動も“備忘録”として残しておきたいと考えました。それは3月11日を決して忘れないためにです。
お亡くなりになった方々のご冥福を心からお祈りします。日本はかならずひとつになれる気がします。




               




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