そんな見沼地区の一角に大崎という場所があり、渋谷さんとはそこで出会った。わたしがいつも一服する休憩所の先客であった。
 丸太の椅子に腰かけて水彩でスケッチをしていた。覗く気持ちはなかったし、それが礼儀だと思ったので、それなりの距離をおいてわたしも腰かけた。すると渋谷さんは「せっかくのんびり描いていたのに邪魔が入ったなあ」といった素振りで絵の道具を片付け始めたのだ。
 わたしは申し訳ない気がして慌てて声をかけた。
「あ! すぐに退散しますから、続けてください」
 一瞬意味がわからない様子の渋谷さんだったが、すぐに気付いてくれた。
「いやいや、そうじゃないんだわ、霞が出てきてなあ、もうダメなんだわ、描けんのだわ」と笑いながら遠くを指さして言ったのだった。
 わたしも彼方に目をやった。黄砂によるその季節特有の春霞だった。確かにぼんやりと眠くなってしまうような薄黄色の空気が、見ているそばから広がっていくのがわかった。で、わたしはこう言ったのだ。
「わたしは写真が趣味で、特に青〜い空が好きなんですけど、でも写真に比べたら絵はいいですねえ、少しぐらいだったら作って描けますからねえ」
 すると渋谷さんはわたしの方をチラと見て、そして再び遠景に視線を戻し、やや強めの口調で言った。
「ボンヤリとしているものをな、いくら絵だからって、ごまかしてくっきり描いちゃだめだよ、あたしははそんなことはできないし、しないよ〜」
 わたしはまるで父親に叱られた子供のように黙り込んでしまった。動悸のようなものさえした。

 わたしはその頃、仕事上でモワモワとしたストレスを感じていた。どうしても納得のいかないものを抱え込み、上司とぶつかってばかりいた。
「芸能人あがりはダメだなあ、いつまで理想ばっかり言ってるんだ」
 何かあると、いつもそんなイヤミを言われたものだ。心がねじれていくようだった。
 納得のいかない仕事を、パンのためにだけこなす日々は実に不幸だ。しかし、まあ40歳をとうに超えた大人の男ならそこで気分を入れ変えて、妥協することも一種の成長だと考え直し、家族のため自分のためにもう一度勇気を奮いたたすところなのだろう。しかし、わたしはそれができないでいた。組織の考えを理解はできたが、納得ができなかった。
 毎日「そこにいる無意味」ばかりを考え始めた。「ここではないどこか」を思い始めたビジネスマンはもうダメである。アラスカのユーコン辺りに無期限の旅に出てしまいたかった。そのまま組織の中で、自分を騙しながら疲弊して行くのは許しがたいことだった。
 そんな半ばノイローゼ状態のわたしにとって、渋谷さんの言葉は道しるべになったような気がする。
 辞表は何度も突き返され、少し時間はかかり過ぎたけれど、結果的には渋谷さんに会ったこの日から3年後、わたしは18年間積み重ねてきたものをすべて捨てた。

 見沼の素晴らしさなどを話してしばらくすると、渋谷さんはおもむろにトートバックから弁当を取り出した。わたしは「お茶を買ってきますね」と若者のようにはずんだ声で言い、すぐ近くの自動販売機まで駆けて行き、熱いお茶缶を2本持って戻った。
「よかったら、これ……」と言いかけて渋谷さんの足元を見ると、昔ながらのアルミの水筒と、そのキャップに注がれたお茶が置かれてあった。
 弁当は白米の真ん中に梅干しを埋めた“日の丸”、添えられたおかずは卵焼きと漬物と、あと1〜2品。
「う〜ん」わたしは唸った。板橋にお住まいと聞いたが、早起きをし、弁当を持ち、茶をつめ、電車とバスを乗り継いでここまで来た渋谷さんの行動を思った。本日することはこれこれ、食べるものはこれ、飲むものはこれ、彼はきっちりと今日という日の準備を整えてここに来たのだ。1日をいいかげんにはしないのだ。
 ひとつひとつの事に信念を持ち、自分の中でそれらを守り、頑固に確実にクリアしながら生きてきた、そんな人間だけがもっている「実直さ」のようなものを、わたしは渋谷さんに強く感じたのだった。

 行き場の無くなったお茶缶をカブのカゴに放り込み、わたしは「じゃあまた、お元気で!」と妙に歯切れよく言ったあと、二度と会うことはないであろう渋谷さんに手を振りながらスーパーカブのセルを回した。




               




mk
 わたしが“ご近所アウトドアフィールド”にしているさいたま市の見沼地区は、3〜4km先に大宮市街の高層ビルが見える割には、広大な畑や田んぼ、果樹園などが広がり実に心癒される場所なのだ。
 我が家から見沼地区まで約15km、これまで何往復しただろうか。おそらく100回以上は足を運んでいると思う。
 見沼用水路という歴史のある水路があり、江戸時代には重要な物資の運搬水路だったらしい。そんな史実を刻んだ石碑や舟通しの模型もあり、休日ともなると万歩計を腰につけた一団でそれなりに賑わう場所でもある。
 “見沼田んぼ”という名称が有名らしく、先日江戸っ子の友人に聞いたところ「小学生の頃、遠足で行ったことがあるぜ、辺り一面田んぼしかなかったぜ、べらんめえ」などと言っていたので、昔はもっと水田の比率が高かったのかもしれない。
 水もいいらしく、造り酒屋もある。空瓶を持っていくと清酒「九重桜」を子分けしてもらえるらしいのだが、わたしはまだ実行はしていない。近々に。
2000年 5月20日(土) 渋谷さん
Yahoo!JapanGeocities Topヘルプミー
今日のオジジイ