「 もうひとつのカヌーの楽しみ  」 

 スポーツカヌーのスラロームも激流下りもそれなりに面白そうである。しかしわたしは根っからのなまけ者なので「現世逃避型カヌー」が大好きなのだ。つまり身近な川の緩い流れに身を任せて“漂流”するとか、湖の真ん中で1日中誰からも干渉されずにボンヤリ過ごす、というようなカヌースタイルである。カヌーで遊ぶというよりベトナムあたりの“船上生活者”に近いような気もするが、煮炊き・飲食・排泄・睡眠、その全てが楽しいのだから別にこれでいいのだ。
 船足(?)が無いと行けないような場所に“秘密の隠れ家”を持つのも、また実に楽しい。「トム・ソーヤじゃあるまいし、世間体もあるんだからそろそろちゃんとした別荘ぐらい買ったら?」と妻は言うし、その気になれば群馬奥地辺りの傾斜山林なら100坪50万円ぐらいから購入できるようなのだが、そういうのはなんとなく雑誌「男の隠れ家」のようで気恥ずかしい。アウトドアはサバイバルなのだ、居を構えてはいけない。流浪の民・ジプシーの生活の再現でなければならないのだ(ホンマかいな)。要するにまだ裏山のガキでいたいわけである。
 荒川から分岐した入間川を2Kmほど遡ると、突然渓谷のような場所に出る。川幅15m、川の両脇は高さ3m程の土の崖になっており、崖の上は際までビッチリ生えた竹薮である。ゴルフ場が近いのでたまにボールが頭上を横断するが、それさえ我慢すれば竹薮は広大なのでまず人は入っては来れない。ケモノよりたくましいへら釣り師もいない。川から近づくしか手のない場所なのだ。
 わたしは何回目かにそこを訪れた時、カヌーを係留し崖を登り、竹薮の中に2m四方の隠れ家を作った。鎌で刈り取った竹株の上に板を渡し、平らな床を作ったのだ。
 アウトドアではこの“平らな面”というのが非常に重要で、それがありさえすればそこが拠点スペースになる。わたしは一日中そこでぼんやり釣りをしたり、本を読んだり、的撃ちをしたり、かわせみの写真を撮って過ごすというようなことを何度かしたが、その間人間には一度も会わなかった。ちょっとしたウィルダネス感であった。
 但しこの隠れ家、一雨降ると流失するのが欠点だ。水位が簡単に5mぐらい上がるので跡形もなくなるのだ。切り拓いた同じ場所にまた床を作れば済む事だが、わたしは2〜3度それを繰り返して飽きてしまった。
 もっと美しい、例えば奥利根湖や千曲川源流域あたりにいつか人工でない天然の隠れ家を持つのが夢である。(単に河原乞食のような気もするが)

 ちょっと変わったもうひとつのカヌーの楽しみ、それは“盗み聞き”である。大自然の声を聞くのとはえらい違いだが、下世話なものをなかなか捨てられないのもまたトム・ソーヤの性である。
 波も風も無く、いわゆる鏡のような水面上でそれは可能になる。 特に沼や湖で顕著だ。驚くほどに彼岸の話声がきこえるのだ。彼岸って言ったって「早くおいで、待ってるから早くこっちの世界においで」というお誘いではない。ただの「岸」ということだ。
 そのような状況では岸から50mほど離れた所でも、音声が水面の上をクリアに走って来るのがわかるのだ。むずかしく言うと1000Hzぐらいの音声帯域がコンクリートや水面に乱反射してブーストされ、至近距離で聞くよりハッキリクッキリ聞こえるぐらいである。
「ママ! あのお舟のおじさん、黄色いバナナをお箸で食べてるよ!」
「あ! ダメダメ、指さしちゃダメ!」
「だってお弁当のオカズがバナナなんて、お・か・し・いも〜ん!」
「だから〜、指さしちゃだめ、ちょっとかわいそうな人かも知れないでしょ」
「だって、だって〜!」
 と、そんなあんばいだ。「そうかあ、やっぱり俺はかわいそうな人なんだ……?」
 わたしは大声で叫んだ。「タ・マ・ゴ・ヤ・キッ! イエ〜イ!」
 また、ある日の夕暮れ時、なんだか怪しいカップルの会話が聞こえてきた。
「だから〜、陽子とは何でもないって……」
「嘘! うそよ! 陽子といちゃつきながらホテル出てくるのを見たもん」
「あ、あれは陽子じゃねえよ。……?」
「……? 」
 わたしはふたりのためにBGMを歌ってあげた。オフコースの曲だ。
「♪も〜う、終わりだね〜」クックック、ヘラブナの匂いの混じった栃木の湖辺りでは、結構生臭い風も吹くのである。
 しかしだ、向こうの会話がそんなによく聞こえるということは、こちらの独り言なども彼岸の相手によく届いているはずなのだ。だから迂闊なことは言えない。
「オ〜! 夕日が2つあるぜ、と思ったらひとつはおやじの禿頭」なんて馬鹿をつぶやいたりすると、石が飛んできたりするのである。わたしのカヌーはファルト(アルミのフレームに布を張ったやつ)なので尖った石などがまともに当たると簡単に穴があく。
 “盗み聞き”もなかなかに命がけなのである。 




                





某月某日某所某笑
もう一つのカヌーの楽しみ