ムーンちゃんはどこだ

2014年01月18日(土)「 ムーンちゃんを偲ぶ会 」
 
 散歩友達のムーンちゃん(ゴールデンレトリバー)が亡くなってしまった。
「ソラちゃん、キラちゃんこんにちは」といつも声をかけてくれたのになあ。あ、もちろん飼い主さんがだ。
 16歳だったそうだ。一般的に短命とされている大型犬にしてはかなりの大往生ではある(ゴールデンの平均は9歳ぐらい)。とは言ってもネエ、犬は家族同然だから長年連れ添った飼い主さんにしてみればさぞ辛かろうと、妻はその日ムーンちゃん宛てに花束を贈ったのだったらしい。
 でまあ、そのお礼の意味もあってのことだろうけど「ぜひにご家族で家にいらしてください」ということになったのだった。「ご主人もかならず」と念押しされたらしい。
 まいったなあ、面倒だなあ、わたしの一番苦手なパターンである。偲ぶという字は人を思うと書くのに、犬なのに、なんでなんだよとダダをこねてみたが、妻に屁理屈は通用しない。
 
 しんみりした“お弔い”は嫌いである。人間の葬式でも酒飲んでワイワイガヤガヤと明るく偲んだ方が故人もびっくりして生き返りそうだし、生き返った奴をもう一度笑い死にさせるというのがいいではないか。オヤジの時もそうしたし、オフクロも妻も(?)そうしてやりたい。まあいろいろな意見があるだろうが、わたしはそういう性質(たち)だ。
「まあいいや、あんまり陰気だったら小噺でもやって盛り上げちゃろ」と真剣にネタを三つ用意して“ムーンちゃん家”を訪問したのだった。
「笑いネタは生かすも殺すも話し方、もってゆき方しだいだからなあ……」などと寸前まで頭の中で反復練習をしている自分がちょっと恐ろしかった。スカポンもここまできたんだなあという妙な感慨。
 
 玄関に入ると、オーそこがすでに「ムーン記念館」になっているではないか! 若干想像してはいたが想像を越えたビックリだ。 壁のここかしこにムーンちゃんの写真が貼ってある。おまけに「ムーン、我が家にきたる」とか「はじめての幸せ誕生日」とか一枚一枚それぞれにペイントマーカーペンでメモが添えてあるのだ。それらがざっと20〜30枚。ちょっと体のあっちこっちがくすぐったい。同じペットでもこれが犬写真じゃなくて金魚写真だったらタダゴトではないなあ、などと妄想している場合ではないのだ。。
 さらにそれらを照らすように要所々々に蝋燭がともされていて、チロチロとゆれる光の中に加湿器の蒸気がむせび、幻想的で重厚な賛美歌が人々(?)の涙を誘うかのごとく流れているのであった。
 嘘。しかしウソは賛美歌だけで、あとはホントウだ。オルゴールのCDが小さく鳴っている。上品な人たちなのだ。奥の部屋にはさらにまさしく無数の写真とムーンちゃんの首輪やリードや服などが陳列(?)してある。
「私たちはクリスチャンなのです」と突然ご主人が言った。
「そうですか」などと笑いながら、なるほどなあと唸りましたヨわたくしは。
「ムーンちゃんもクリスチャンだったんですか?」と尋ねた瞬間に妻がトゥーキックでわたしの脛を蹴ったので、その答えは永遠の謎になってしまった。
 
 そんな感じ(?)で2時間ほどムーンちゃんをしとやかに(しんみりではない)偲んだのだった。せっかく用意してきた小噺もできずわたしはちょっと悲しかったが、まあ心優しいクリスチャンの中にいて感化され、おだやかにおだやかに紅茶とブルーベリーソースの乗ったレアチーズケーキをオカワリしたりしたのだった。
「ほんとうに犬と人間の間には友情や家族意識などが存在し得ますよねえ」などと聞いた風な“サービス理論”を披露して、まったくもって抜け目の無いあざといわたしだったりしたのだった。
「わたしもソラが死んだら、後追い自殺をするかもしれません」
「オーホホホッ。ご主人、自殺はいけませんよ、自殺は」
 さすがに(?)クリスチャンである。着地がうまいのなんの。
 
 
 冗談のように書いてしまったが、ほんとうに「良い人たち」に会えてかなり気分のよい「偲ぶ会」なのであった。犬の取り持つ縁なのだ。犬を飼っていなかったら、絶対に知り合うどころか挨拶すらしなかっただろうからなあ。
 せっかく考えた三つの小噺をどこで披露するかが取り急ぎの課題である。近々予定がある法事の読経の後に坊さんに聞いてもらうというのも一興だが、坊主ってなんかさらに上手い小噺で返してきそうな気がするから迷うなあ。
「迷ってはいけません」とか言うんだろうなあ。
 
 
 


  




mkmk
富山の「クスリチャン」という薬局の従業員は
みんな「クリスチャン」であるらしいぞ
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