「 公文式  」

 おはようございます。
 わたくしごとで申し訳ありませんが、今日はわたしの娘の話から入らさせていただきたいと思います。
 わたしの娘は映像的想像力が豊かなのか、父親譲りの妄想癖なのかよくは分かりませんが、何かことがあると、まず真先にイメージ画像が頭の中に浮かび、それからその画像に添ってものを考えるという、困ったというかやっかいな感性を持っているようなのです。
 例えば「赤頭巾ちゃん」のお話をしたとすると、狼は何色なのか、おばあさんは本当はいくつ(何歳)なのか、小屋の鍵はキー式なのか数字合わせ式なのかといった、本筋とはあまり関係のないことがとても気になるらしいのです。わたしは子供の豊かな感性を摘みとってはいけないと思い、ヘトヘトになりながら大いに創作して説明をするのですが、そんなあんばいですので勉強、そう特に算数などを教えるのはさらに一苦労なのです。その方が分かり易いだろうと思い、ついそういう説明のしかたになるのですが、例えばこうです。
「1個のリンゴを1人で食べると1÷1だから1個ね。2人で食べるとなると、まあパパの方がちょっとたくさん食べるかも知れないけど1÷2で1/2となるわけだな、分かる?」
 とまあそんな説明のしかたになる訳です。ところが娘の頭の中には、父親であるわたしとのにぎやかな楽しいやりとりの映像が先に浮かび、そのまま消えないでいるわけです。わたしが自分の方をわざと大き目に切って、ふざけたりしている様子が映像で浮かんでいるわけです。そして余計なことを連想し質問を始めるのです。
「包丁で切ったの、ナイフで切ったの?」「リンゴは大きいの小さいの、甘いのすっぱいの?」となる訳なのです。それが解からないと次へ行けないらしいのです。
 そんな感じなので分数の割り算ともなるともう大変なのです。1÷1/2なんて、身長が普通の人の半分しかない人が1個のリンゴを盗り合う姿を連想しますし、1÷1/20なんてことになるともう大変、10Cmに満たない小人たちが1個のリンゴに群がって包丁を振り回しているらしいのです。分数同士の掛け算、割り算は推して知るべしなのです。
 我慢に我慢を重ねていても、ついに結局わたしは面倒臭くなって言いました。これから色々な可能性を秘めた子供に、そういう言い方をしてはいけないことだと分かっていても言ってしまったのです。
「あ・の・ね、こういうのはね、こうやるんだよ、もう決まってんだよなあ方法が、小人さんはいません。細かいことはゆっくり後で考えることにしてさあ、こういうのはチャッチャッとやっちゃえばいいの……」
 娘は納得いかないという顔で実に不服そうに口を尖らせましたが、やがて正解が出せる喜びの方が勝ったのか、あとはどんどん問題を解いて得意そうな顔になりました。
 正確なところはよく分かりませんが、そういうやり方を「公文式」というらしいのです。

 さて、最近我が社では若い連中のボルテージがやや下がってきたように感じられます。ボルテージが下がったというより色々余計なことを考えさせられて潰されつつあるような気さえするのです。確かに仕事はたくさんある、ひとりでは捌ききれない、さらに上からは難しい要求がどんどん降ってくる、疲れてきているのはよくわかります。さらに仕事に私情をはさんではいけないことは解かっていてもどうしても生理的に嫌な奴との人間関係とか……色々あるとは思うのですが、もう一度頭の中を整理して自分の仕事を見つめなおして欲しいと思うのです。
 それと仕事にも、先ほど話したような公文式を採用してもいいんじゃないでしょうか。これはじっくり考えるべきもの、これは数式に当てはめてサクサクッと片付けるもの、納得できなくても片付けてしまっていいもの、そういう仕事というのもあっていいんじゃないでしょうか。理不尽ではあっても上から言われた通りにホイホイって片づけてしまう仕事ってのもあっていいんじゃないでしょうか。手抜きをするという意味ではありませんけれど、そうやって気分を入れ替えて行かないと病気になりますよ。そういう人が今まで何人もいました。なんとか元気を取り戻しながら仕事をして行きましょう。
 


 上の文章は某月某日、かつていた会社での、わたしの朝礼のあいさつである。当然わたしはその後すぐに社長室に呼ばれて大説教を食らい10%の減給になった。しかし、一部には大いに受けた。
 いずれにしても、レベルの低いちんまい?話である。“公文式”自体に他意はない。




             





某月某日某所某笑
公文式