ここ数日のこと
07年3月7日(水)「 ここ数日のこと 」

 3月になったら「渡良瀬川解禁釣行」、そしてさらにもう少し暖かくなったら「水中写真の撮影」、4月に入って「千葉県養老渓谷巡り」「毛嫌いしないでルアーに挑戦」、5月には「東京湾一周カブの旅」「来たぞ日本海」etc、わたしの遊びはどんどんエスカレートしていく筈だったのだが……。

 3月3日、深夜00時、勤め帰りの娘のバイクが車と激突した。相手の車が前にもう1台右折待ちの車がいるにもかかわらず、車線をまたいで横着なショートカットで右折しようとしたからだ。結果、信号の青を確認し発進した娘のバイクとほぼ正面衝突の形でぶつかった訳である。車のアニマルガードは「くの字」に曲がり、フロントガラスは娘の頭突きで割れた。1月16日にわたしが乗って遊んだ(1/16フィールドノート「原チャリに乗って」)娘の小さなバイクは、あの日わたしが懸念した通り跡形もなく飴のようにつぶれ、路上に横たわっていた。外装のプラスチック類は細かく砕け、まるでつぶされた甲虫の残骸ようだった。バイクのまわりには漏れたエンジンオイルの溜りがいくつか有り、2サイクル・エンジンオイルのやけに甘い匂いが漂っていた。少し離れた暗闇の中で娘が愛用していたヘルメットだけが黄色く派手に光っていた。軽い接触事故でないことは野次馬の目の輝きぐあいですぐにわかった。
 とにかく娘の安否を確認したくて救急車に駆け寄ろうとしたわたしに、その、おそらくわたしと同年配の男は言った。川口警察署交通課の警官だ。
「お父さんですか? とにかくね、バイクをどけてください。通行の邪魔になりますから。レッカー会社を知ってる? 知らないなら、いつもうちで頼んでる業者を紹介するよ、もちろん有料だよ」
 わたしは怒りを通り越して唖然となった。こんなデリカシーの無い輩に、我々は税金を払ってやっているのだ。おおむね調べが終わったので、早く帰りたいだけなのだ。わたしはその無能警官にガンを飛ばし、顔を頭に焼きつけた。あとで必ず問題にしてやるぞと言った。もう少し年配の別の警官が慌てた様子で現れて、その馬鹿警官をよそに連れて行った。
 妻が救急車から出てきて「生きてはいる」と言い、また救急車に戻った。わたしは冷静を装い、鑑識官にビニール袋をもらい、路上のプラスチック片を拾い始めた。血の塊を素手で拭い取り、ズボンにすべて擦り付けた。血の一滴さえも娘をそこに残して行くのはいやだった。自分の車に積み込もうと試みたが無理で、バイクはすぐ近くの東京新聞販売所のオヤジさんが「うちに置いときな、引き取りはいつでもいいから」と言ってくれたので置かしてもらうことにした。彼が神様に見えた。

 娘を受け入れてくれる病院がなかなか無くて、救急車はなかなか出発できないでいた。後日、東京新聞のオヤジさんに聞いたが野次馬たちは「死んだんだな」と言って引き上げて行ったのだそうである。26番目にあたった病院でやっと受け入れてもらえることになり、救急車は都内に向かった。わたしは苦痛を訴える娘のそばで何も出来ず、心拍数と血圧を標示する液晶画面をじっと見ていた。どこをどう走ったのか、どのぐらい時間がかかったのかもあまり分らないまま、わたしはくそ暑い病院のソファーに座っていた。事故の知らせを受けた時、わたしは既に酒を飲んでいたので、車は妻が運転して救急車についてきたはずだったが、途中ではぐれたのか妻はなかなか病院に到着しなかった。動転して事故を起こしているのではないだろうか、二重三重の最悪事態を想像してわたしは貧乏ゆすりを繰り返した。

 午前4時半、救命救急のICUの扉が開き医師が出て来て言った。
「応急の処理手術が終わりました。あくまで応急なのでまだ分らないことがほとんどです。怪我がひどいので2〜3日は全身麻酔で眠らせたまま、腫れや出血が落ち着くのを待ちます。脳などの精密な検査はそれからです」
 わたしは自分がかつて大腸癌で入院した時のことを思い出していた。麻酔が抜ける時の猛烈な悪寒と頭痛を思い出していた。娘の膝には直角に金属の棒が貫通させてあり、それに結んだ紐は滑車を通り、さらにその先には7Kgと書かれた分銅がぶら下がっていた。3つに折れて筋肉に突き刺さり、そのうちの一つは皮膚さえも突き破って露出してしまった右大腿骨を少しずつ牽引して元の状態に戻すための装置らしかった。さらに右手の指が数箇所折れ、頭蓋骨にひびが入り、顎がずれ、奥歯も数本割れているようだった。そして「全身麻酔が効いているとはいえ瞳孔が開きっぱなしだ、おかしいなあ」と医者は言い、脳の損傷を懸念する表情を見せた。
 わたしたちはとにかく一度家に戻る事にした。もう何時間も失意のどん底にはあったが、車の中で改めて「はっきりしないことを想像で悩むのはやめよう」と話し合った。
「俺の子だからな、強いに決まっている」とわたしは訳のわからないことを言った。
「いつも根拠の無い自信けど、そうだといいわねえ」妻が少し笑った。
 午前6時に帰宅、わたしはそのままスーツに着替え、勤めに向かった。すべてはハッキリしてからなのだ。いまさら慌ててもしかたが無いのだった。目の前に起こっていることに対処するのが、わたしたちに出来るすべてだった。




 3月5日の午後6時、娘が2泊3日の“黄泉の国ツアー”から戻ってきた。口に入っている管が喉に当たって痛いらしく苦痛に満ちた声をしている。映画「エクソシスト」の少女のようだ。まだ麻酔が残っていて眼が半開きなのでなおさらである。おぞましいダミ声になってしまっている。それでもわたしたちは嬉しくて、娘の口元に耳を近づけて「何? 何?」と聞き返した。生還の第一声なんて、胸が躍るじゃないか!
「ザイダーどぅいて!」
「‥‥‥? 何? 何?」
「サイダー抜いて!」
「はあ?!」
 よっぽど喉が渇いていたのだろう。口の中が唾液と血でネチネチなのだ。
「ダメだ、ダメだ、口には管が入っているんだぞ、サイダーなんか飲んだら死ぬぞ」
 娘は実に残念そうにゼーゼーと喘ぎながらため息をつき、言った。
「ファンタもダメ?」
 後ろで娘と同じ年、23歳の看護婦が笑った。わたしたちも笑った。本人もボホッボホッと2回咳き込んで笑った。そして「飲んじゃダメよ」と言われながらうがいをさせてもらい、また深い眠りに落ちていった。
「あなたの子だわね、そっくり」
 妻の言っている意味は“馬鹿なところ”なのか“人を笑わすことばっかり考えてるんだから”なのか、あまりよく分らなかったが悪い気はしなかった。わたしはそんな気分で「さあ戦いはこれからだぞ、これからが勝負だぞ」と思った。直視せねばならない問題を山ほど抱えながら、妙にすがすがしい気分なのはなぜなんだろう、とも考えた。
 現在時、車を運転していた84歳の男性にはまだ会う気になれない。84歳でショートカット運転をするような奴がロクな人間である筈が無いのだ。その場で殺してしまうかも知れない。




             




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