「 恋はgive&take 」

 甲斐千恵美さんが43歳の若さで亡くなってしまった。新聞やテレビの報道からしか情報は得られないが、死に方だけをみると胸が痛む。心からご冥福を祈ります。わたしは、彼女のために曲を書いたことがあるのだ。
 
 わたしの1stアルバムは業界内ですこぶる評判が良かったので(自慢ね)、レコード会社の枠を越えて何人かのディレクターから作詞・作曲のオファーをいただいた。当時、甲斐千恵美さんはビクターレコードのトップアイドルで、通称ネコサンと呼ばれるディレクターが担当していた。そのネコサンがわたしの曲を聴いて気に入ったらしく、私のマネージャーと懇意だったこともあり話がトントンと現実化した。
 アイドル歌手の曲を作るのは初めてだったので、思いきり遊んでやろうと考えて超明る目の、超軽い、超はずかし目の曲を2曲作った。デモを録音する際、一人で歌入れをしているのに恥ずかしくて顔から火を吹いたぐらいだ。デモテープはより雰囲気を伝えなくてはならないので、明るい感じを出すために録音時振りまで付けて録った。火は倍になった。それが「恋はgive&take」と「木綿のスィートピー(嘘、嘘、2曲目は覚えてないのよ)」だった。
 採用されるか否かが心配だったので、まずは自分のディレクターに聴いてもらうことにした。彼はイントロから笑い出し、歌始まりでズッコケた。わたしはがっかりして試聴中に再挑戦を決意したのだったが、ところが評価は意外なものだったのだ。
「小林よう、これが採用にならなかったら先方のディレクターに才能が無いってことだぜ、よくやった。OK、OK。おまえ、他人の曲を作ってる時は実にリラックスしてるなあ」
 わたしは“誉められて伸びる男”なので、この時のことが後々までずっと自信につながって行ったのは確かだった。他の歌手に曲を書くのが大好きになった。印税は多いし、自由である気がした。そういう意味で「恋はgive&take」はわたしにとっては記念碑的な曲になった。
 甲斐千恵美さんもおそらくデモ(曲)を聴いて喜んで(大笑いして)くれたに違いなかった。彼女は当時15歳ぐらい、わたしより10歳も年下だったので惚れてしまうというようなことはなかったが、忙しく働いて疲れきったアイドルを束の間でも笑わせてあげられたかなと思うと、もうそれだけで嬉しくなったりしたものだ。

 ところが……。
 実は、オイルショックや諸々の事情で「恋はgive&take」はレコードにはならなかった。採用は決定していたのだがリリース予定自体に変更があったらしいのだ。そうするうちにディレクターが変わり、とうとう“オクライリ”になってしまった。わたしは今でも口ずさめるが、相当いい曲だったと思っている。“恋”だけじゃなくて“人生”もgive&take、広く考えれば“五分五分”と“Take it easy”いう内容だった。人生なんて本当に五分五分じゃないですか?
 報道の勇み足かも知れない。自殺かどうかはまだはっきりしない。そんなことにわたしは興味は無い。わたしの曲を聴いて笑った(であろう)頃の甲斐千恵美さんを思い出し、ただただ涙が出てくるだけだ。
 
 


            
 
 



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