2013年08月29日(木)「 インターバル撮影 」

 わたしの葬式用の写真をどれにするかということで妻と娘が言い争いをしている夢をみてしまった。
「これ少し頬が歪んでるし、それにちょっと若い時過ぎやしない?」とか「これはこれで最近過ぎて老けてて汚いしみっともないかも…」とか「あんまりいいのが無いわねえ。やめちゃって絵にしちゃおうか?」
などと、かしましくほざいていやがるのだ。
 何だか楽しそうなのがさらに気に入らないが、しかし確かになあ……人生最後のメインイベントにふさわしい写真というのは選ぶのがなかなかむずかしいだろう、というのは良く分かる。

 わたしはおそらく78歳ぐらいでは逝きそうな気がする。小林家の遺伝子とか健康状態、神への貢献度から判断するとそうなるのだ。まあそれは冗談で適当に予想しているだけなのだが、しかしだ、とすると……丁度今の年齢ぐらいに撮った写真が祭壇の遺影に使われる可能性が非常に高いのではないか、とそんな気がしてきたのである。
 こりゃ〜ボヤボヤなんかしていられない。1日も早く遺影にふさわしいフォ〜トグラフを自らの手で撮っておかねばならないわい、とマジで思ったわけである。

 冒険家でもカヌーイストでもないがカヌーを漕いでいる写真を遺影には使ってもらいたい、と結構真剣に思っている。上半身しか見えないのがわたし的にとても有利だし(あ、全身の葬式写真なんて見たことないか)、おそらくその方が力強く男らしく見えるだろう。自分勝手の“ガハハ〜”なのだ。
 それに昔からわたしはなぜか写真を撮される時にちょっと腰を引いてしまう妙な癖があって、それが胯間を触っているようにも見えるらしくて、いつも家族から「オカマがイッヤーンと言っているみたいだぜ」と馬鹿にされているのだ。だから葬式の時ぐらい男らしくグッグイと腰を突き出してみたいと……あ、下半身は要らないんだった、写らないんだった。

 カヌーの先端にデジカメをこっち向きに固定し(耐水性強力両面テープで付けただけだけど)30秒に1回自動でシャッターが切れるようにセットした。これが「インターバル撮影」というやつだ。長いレリーズケーブルを使って足でシャッターを切る方法もいいのだが、インターバル撮影の方がじきにセットしてあることを忘れるだろうから自然な表情が撮れるかも知れない、と踏んだわけだ。リコーのデジカメなら、どの機種にもほとんど付いている機能だ。野生動物の定点撮影などでよく利用される。今回「Caplio R1v 」という400万画素の完動品を、なぜか2台で1000円という超安値で売っていたのでそれを手に入れて望んだ次第であります。

 強風吹き荒れる栗山川に漕ぎ出す。ぐらぐら揺れてかなりおもしろい。
「自分の遺影写真を撮ろうと川に出た老人が溺れて行方不明になっています」というニュースが脳裏に走ったが、知ったことじゃない。どうせ笑われてなんぼの(?)人生だ。
 それよりも振動で画像がブレてしまいそうで不安だった。とは言っても、漕ぎ出してしまったらもう手も届かないしやり直しもきかないので後はもうすべて運任せである。揺れる度に「無駄ショット一丁」と低くつぶやく。両面テープが剥がれてカメラが川にドボンすれば全てオシャカだがそれもまた仕方がない。カメラはもう一台あるのだし、きっとそのための2台売りだったのだと考えると幸運が倍になる気がするネ。こういうのを能天気というのだけど。
 栗山川は適当に蛇行しているのでカーブを過ぎると無風状態の所もあったりして、そういう所ではここぞとばかりに意識してポーズを取ったりもした。が、そういう時の30秒というは超長いのだ。作った表情を保てきれずに眼球が動き、それを繕おうとすればするほど目ん玉パッチリのオカマさん顔になるのだった。

 3時間で12Km強漕ぐ。計359枚の写真が撮れていた。思った以上によく撮れていて、ほとんどブレもボケも無い。空が明るすぎて顔部分がやや暗めだが、白いタオルでも膝の上に置いておけば解決する問題だ。
 自室に籠もって密かに隠微に鑑賞する。なぜにこそこそ見なきゃいけないのか分らないが、まあその方がジワジワとくるものがあって可笑し嬉しい。数があり過ぎて飽きてしまい、しまいには他所の人を見ているような変な気分になってしまった。我が姿ながら“友達にしたくないタイプ”だなあ、と思ったりする。
 逆風の中を漕ぐその元気なジジイは、必死の形相で何事かを叫びながら愉悦にひたり、半ば笑っているようである。おかしいといえば実におかしい。
 妻と娘に見せて笑わしたいと思ったのだが「いつまで馬鹿なことやってんだか!」と言われるのがオチなので止めてしまった。こういうのはあれですね、やっぱちょっと病的に精神に異常をきたした男風に、コソコソこそこそとひとりで楽しむというのが「王道」というものだろうかなあ。イッヒッヒーである。
 
 ま、それでもちょい寂しい過ぎるので、犬を連れてきて写真を見せることにした。
「おとうさんは今日こんな面白いことをしてきたんだぜ」と犬の顔をパソコンモニターに押しつけたのだが、どうやら犬というのは写真というものを判別できないようなのだ。これは新たな発見である。動画には直ぐ反応するくせに、静止画だと写っているのが飼主(わたし)だということすら分からないらしい。研究の余地ありかも知れない。何の研究だよと言われればそれまでだ。せめてシッポでも振ってくれれば「尾も白い」というわけでうまく着地できたものをなあ。古典落ち?

 インターバル撮影はまだしばらく続くと思う。ナルシズムではもちろんなくて、むしろその逆であろうか。
「ああ、59歳というのは他人にはこういう風に見えているのだなあ」という自覚を持つのにいい機会のような気がするのである。鏡よりもきっといいと思う。
 あきらめねばならない事と、あきらめてはならない事の分別をそろそろしなければならない。




                




mk
歩くスピードと同じだから水上散歩と言うのである、か?
※写真はクリックすると大きくなります

今日はここから出発

結構うねってます

カメラは両面テープで

359枚撮れました

わっはっはっはー、だ

おっほっほっほー、だ

うっひっひっひー、だ

がっはっはっはー、だ

えっへっへっへー、だ

しかし嬉しそうであるなあ
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