「 バイリンガル 」

 わたしが19歳ぐらいの頃の話だから、もうかれこれ32年も前の話だ。わたしは浪人生活に飽きていた。毎年東京芸術大学の油絵科を受験しては落ち、来る日も来る日もデッサン、デッサンの日々だったのだ。
 そんなある日、先輩浪人のHさんがアルバイトの話を持ってきた。東京都議会議員の選挙のバイトである。とは言っても、やることと言えばただのビラ配りだ。ノルマも無く、立候補者が演説している近辺で通行人にどんどんビラを配ればいいだけである。楽勝だ。
 候補者は目黒区を地盤にしている小杉隆という人だった。何年か後には国会議員になったし、今もおそらくそうだと思う。若くて元気でスポーティな方だった。奥様も美しい方で、田舎(鹿児島)から出てきたばかりのわたしにとっては、いかにも高級な人々のように見えたものだった。
 党派としては自民党だったので“ねじれ派”のわたしとしては多少の不満はあったが、ビラを配るのにはポリシーのポの字も必要なかったので、毎日楽しく早起きして1時間ほどかけて都内に向かった。
 選挙事務所は自由が丘にあって、毎朝紙袋4つ分ぐらいのビラを持って、そこから指定された場所へと出発するわけである。ビラ配りの男組が10人ぐらいいて、他にも事務所詰めの女子アルバイトが5人ぐらいはいたと思う。選挙事務局長は確か藤瀬さんという方だったような気がする。恰幅のいい姿が多少その筋の人のようにも見えたが、笑うと面倒見のいいやさしいチンピラのようになってしまうところが、なかなかに魅力的だった。
 女子アルバイトの松井さんと話をするようになったのは、バイトを始めて4、5日目だった。仕事前と仕事後のほんの5〜6分の間、事務所での立話しではあったが、出身地のことや受験のこと、年齢や趣味など結構いろいろとしゃべった。上品な切れ長の目で、どこかしら中国系富豪の令嬢風であり、育ちの良さそうな美人だった。肌の白さが純粋な日本人のそれとは明らかに違い透明度が高かった。いろいろ噂があって、小汚い美大浪人のわたしなどにとってはまぶしい存在ではあったが、唯一確かな情報として、英語・日本語・中国語がぺらぺらで、いわゆる「バイリンガル」だということだった。
 バイリンガルが選挙事務所でどんな仕事をしているのかはわたしには知る由もなかったし、まったく関係などないことなのかも知れなかった。

 その頃のわたしは糞が付くほど真面目な青年だったし、言われた仕事はキッチリと、いやいや、相手が期待する以上の成果を出してみせよう……といったピュアな気持ちを持っていたので、選挙事務局長の藤瀬さんにはいつの間にか随分と気に入られてしまっていた。ある日ビラ配りから戻ると、一人だけ別室に呼ばれたのだった。
「よう! あのさあ小林君、松井さんから聞いたんだけど鹿児島の出身なんだって?」
「はあ……」
「鹿児島弁は話せる? 純粋なやつ」
「そりゃあまあ、当たり前ですから。純粋かどうかはわからないけど、なんでですか?」
「実はなあ、世の中にはいろんな奴がいる訳よ。小杉隆は若くて人気も実力も将来性もあるのよ。それを妬んでな、嫌がらせの電話が多いのよ。ズバリ言うとな、そういう電話の対応係をやって欲しいんだな鹿児島弁で」
 わたしは迷った。ビラを配るだけの仕事だと聞いていたので始めたのだ。わずらわしいことを何も考えず、黙々とした単純作業はストレス解消になっていたし、そんなちょろい仕事で他のバイトの1.5倍の時給が稼げるというだけで、わたしはもう十分に満足していたのだ。それをまた敢えて変える必要があるのか、口下手な自分に勤まるのか、わたしは考え揺れた。
 いつもなら何がなんでも消極的に逃げてしまうわたしなのだが、心を揺らしたのには理由があった。その電話係りを引き受けてくれるなら更に今の倍の自給にしようと藤瀬さんが言ったからだ。
 2週間の稼ぎの見込みは¥70000ぐらいの予定だったが、それが一挙に¥100000を超える額になるのはかなり魅力的なことだった。“さもしさ”に負けたわけである。(「昭和枯れすすき」みたいだが向こうは、♪“さ〜み〜しさ”に〜負けた〜♪である)
「ぜんぜん関係のないことをベラベラしゃべって欲しいんだよ、逆に、受け答えなんかしちゃだめだ。相手が訳がわからなくなって電話を切ればこっちの勝ちなんだからな、そういうことなんだ」
 選挙事務局長の藤瀬さんは不敵な笑いを浮かべて説明を続けた。わたしは不安を感じながらも“ちょっと面白そうではあるな”ぐらいの気持ちにはなってきていた。その反面、脈絡は何もないのだが「我がふるさと・鹿児島」を何だか誰かに売り飛ばすような感覚を少し感じていた。そんなことのために母国?の言葉を使ってはいけないような気がしたのだ。
 色々な思いが頭の中を走ったが、10万円の姿と当時欲しかった一眼レフカメラの姿がそれらの思いとクロスした。
「わかりました、やってみます」わたしは決断した。
 藤瀬さんを部屋に残し、わたし一人で応接室から出てくると、事務所のデスクに向かって書類整理のようなことをやっていた松井さんがわたしをチラリと見て、手の位置を動かすことなく机の上に置いたまま、指先だけでピースをした。おそらく松井さんがわたしを藤瀬さんに推したに違いなかった。


 翌日からすぐにその仕事は始まった。ビラ配りのバイトの話を持ってきてくれた先輩浪人Hさんと数人の仲間を見送り、わたし一人が選挙事務局のデスクに着いた。そして電話もすぐに鳴った。誹謗中傷の固まりのような内容だ。(ここからの電話の内容は、あくまで「例え」だからね!)
「小杉はよう、女癖が悪くてよう、俺の妹を若い頃腹ましやがってよう。この事を世間にバラすからな!調子に乗ってんじゃねえぞオラー、何とか言ってみろオラー!」なんていう感じなのである。
 そしてわたしは、ぜんぜん意味のないことを鹿児島弁で言うのだ。
「アンヨー オイガチンケコロアサオキッセエニワヲミチョッタラ ベボガハイッテキッセエタカナンハッパヲゴッソイヒッコヤシテドタッチヒンネムッテシモタトヨ」
 意味はこうである。
「あのね、わたしが小さい頃、朝起きて庭を見ていたら牛が入ってきて高菜の葉っぱをすっかり引きぬいてドタッと横になって眠ってしまったのだよ」
 わたしはだんだん面白くなってきた。なぜなら回りの女子アルバイト達の眼が点になっていたからだ。
 次の嫌がらせ電話もすぐにかかってきた。
「おたく達、有権者の家を午後8時以降に一軒ずつ個別訪問してティッシュ配ってるだろ、箱の底に千円札が貼ってあるってえじゃねえか! エー? オー? アー? イー? ウー?」
 わたしは「馬鹿がー、お前は発声練習男か!」と言いたいのをグッと押さえて、さらにさらにオーバーローカルにしゃべくった。
「ゴーヤチニガゴイトヒトッモンジャンド サダッガバーッチキッセエドンコビッガピョンコピョンコトンヨナトコイガガッツイズンバイトレモンド ワヤスッナ」
 自分でも間違えそうだ。こうである。
「ゴーヤというのはニガ瓜と同じものですよ。にわか雨がバーッと降って、蛙がピョンピョン跳ぶような所でとってもニガ瓜はよく採れます。あなたは好きですか?」だ。
 電話はすぐに切られた、全戦全勝一発KOである。もうそれは日本語ではなかった。選挙事務所は爆笑の渦となり、藤瀬さんは満足そうにふんぞり返り、女の子たちは拍手をした。そして松井さんはわたしに駆けより、言った。
「You! Just bilingual ! 」……わたしはあまり嬉しくなかった。


 3〜4日はわたしの鹿児島弁に皆笑っていたが、それ以降はいつのまにか事務所内のただのガヤになっていった。そして誰も気に止めなくなった頃に選挙は終わり、小杉隆は都議会議員になった。
 当選の祝勝ムード冷めきれぬ中で、アルバイト達はいくらかのご祝儀を上乗せされた額の現金入りの封筒を手に散って行った。しかしわたしと先輩Hはもう少し残っているように、と言われた。しばらくすると藤瀬選挙事務局長が現れ「はいよ!」と封筒をわたしたちに渡した。中をのぞくと¥150000入っていた。藤瀬さんは「ゆっくりはしてられねえんだ」といった様子で言った。
「嫌な仕事を頼んで悪かったな、ほんの気持ちだ。一緒に来た2人に差はつけられねえからよ、2人とも同じ額が入ってる、じゃあな」
 藤瀬さんは見たまんまの“太っ腹”だった。

 わたしはその金で、当時キャサリン・ロス(女優)がTVCMをしていた「キャノンFTb」という一眼レフカメラをついに手にいれた。¥64000だったような気がする。写真人生がそこから始まったのだった。そして残りの金はどこへいったのかまったく覚えていない。
 バイリンガル松井さんからは、その後一度だけアパートの共同電話に連絡が入り「Hey!会おうよ」と言われたが、わたしとしては当時キャノンFTbを抱いて寝るほうに興味があったようで、結局彼女と再会することはなかった。
 バイリンガルという言葉をきくと、今でもちょっとタラレバになる。

追記資料1 : 当時の平均的時給は¥500ぐらいだったと思う。土木作業を1日やって¥4000もらった記憶もある。この選挙のバイトは日給¥10000ぐらいだから恐ろしく美味しい仕事だったわけなのだ。
追記資料2 : 公式ホームページを見てひったまげた(びっくりした)。小杉隆氏は文部大臣までやった大物になっていたのだ。




             





某月某日某所某笑
バイリンガル