浅草を歩く
07年4月10日(火)「 浅草を歩く 」

 水彩連盟展(4/4〜16)を観に六本木の国立新美術館へ行く。春山うめさん(知人の日本画家)が作品を出しているので見ておかねばと思ったからだ。搬入の当日、彼女が体調を崩してしまったので、作品を急遽妻とわたしで運んだといういきさつがあって、なんとなく自分達の絵のような気にもなっている。どんなふうに展示されているのか、まがって掛けられてはいないだろうか(意外に多い)、初出品だから展示場所的に冷遇されてはいないだろうか、とまるで子を思う親のようなドキドキ気分である。
 地下鉄千代田線、乃木坂駅の改札を出たところに何か貼り紙がしてあるのが見えた。嫌な予感がした。その貼り紙に近づくにつれ、気をつけなきゃ気をつけなきゃと何度も自分に言い聞かせていたことを思い出し始めていた。めまいがした。貼り紙は「国立新美術館 本日休館日」であった。馬鹿夫婦である。

「このまま表参道へ出て銀座線で浅草へ直行しましょう。空いた時間で浅草見物ってことでどう?」
 妻の苦肉の提案にわたしは同意するしかなかった。娘が移ったリハビリ専門の病院も浅草にあり、今日初めて(わたしが)見舞うという目的もあったので、早めに浅草入りして見物という訳である。それにだ、東京に来て35年になるが、わたしは浅草という所にまだ行ったことがなかった(ライブハウスで演ったことがあるような気がするがはっきりしない)のだ。理由は自分でもわからない。変な言い方だが、九州から上京してすぐに普通の生活(?)に入り「東京へ来たぞ、おもしろそうな所がいっぱいあるぞ、あっちこっち見物しちゃろやないけ!」といったプラスの感動・指向がなかった、と今になって反省している。冥土の土産に、今からでも「はとバス」に乗ってひと通り東京巡りでもしておいた方がいいだろうか。

 雷おこしならどこどこの店、10円饅頭だの100円アイスだの、スキヤキ食べるなら裏通りのどこどこ、などと妻がやけに浅草に詳しいので驚いてしまった。娘が中学・高校の頃、妻はよく彼女と連れだって遊びに来ていたらしいのだ。そういえば、わたしは自分が山川で姿を隠してしまっている間の妻と娘の行動を考えたことなどなかった。家族内のことでも知らないことがたくさんある。
「定番コースで行きましょう」
 わたしが“人ごみ”を嫌いなのを知っていて、妻はわざとにぎやかな仲見世へと突き進んで行った。こまごまとした土産物屋がとにかくたくさん軒を連ねているだけである。観光客ではないから購買意欲などひとかけらもないし、店の売り子さんもわたしが“ただ見ているだけの客”と分かるのか近寄っても来なかった。妻はいちいちディープな説明をしてくれるのだが、わたしが外人客と一緒に“木刀”などに見入っていたり、挙げ句の果てに「これ“ボクトウ”、エイッヤアッ! 剣道ネエ」などとやっているのを見てそそくさと逃げるように離れて行ってしまった。和風の手拭いやノレン、Tシャツなどを売る店が結構外人には人気があるようで混雑している。その手のものには必ず「忍」とか「魂」とか「刃」「侍」「武士」などの文字がプリントしてあって、100%外人向けの商品であるのだ。たまに“近所のお兄さん”でもそういうTシャツを着ている人がいるが、あれは顔は日本人だけどほんとうは外人なのかもしれない。わたしは、酒屋さんなどが着けている無地紺色の前掛けがあれば買おうと探したのだがことごとく「忍」とか染め抜いてありニントモカントモだ。忍者用の前掛けのようで恥ずかしい。「卍」はあったがわたしはファシストではないのでやめた。(ちがう?)業者さんにはぜひ今度「鬼畜米英」とか「欲しがりません勝つまでは」とか「本土竹槍総決戦」「千年の恨み・広島」なんてのを作ってもらいたいものだ。もの好きな人は必ずいる。万が一と思って探したが、有る訳がなかった。
 店々の裏に回り込む。裏通りはいいよ、実にいい。弁柄(ベンガラ)の壁に銅屋根、銅は緑青を吹いている。さり気なく置かれたゴツイ“維新力(そういう商品名のものがあるのね)”風の自転車、木戸、水盤、そしてそれに浮かぶ水草。下町風景が特に好きな訳でもないが心が和んだ。

 このままだと裏道ばかり進んで行きそうなので仲見世に戻る。入り口の雷門の所もそうだったが、テレビや写真で見慣れているせいか妙に懐かしい風景だ。“せんそうじ”が“浅草寺”であることを初めて意識した。あまりに有名な場所なのであまり写真も撮りたくなかったが、線香の煙を体にかける振りをしながら煙越しに若いカップルを撮ったり、疲れ切ってバナナを食べる外人などをこっそり速写した。白人系の外国人は何をしても絵になるのでうらやましい限りだ。仮にわたしが浅草寺でバナナを食っていたら、浮浪の末に行き場を失い3日ぶりに食を得た乞食にしか見えないだろう。違いはたった一つだ。長い足だ。しかもジーンズを履いていなければならない。色はブルーだ。
 小学生のころ「将来は何になりたいか」の作文で、わたしは「外人」と書いた記憶がある。

 浅草を2時間ほど堪能したので、娘のいるリハビリ病院へ向かう。食中毒を恐れてのことだろうが、病院は「生ものの差入れ禁止」である。で、わたしは握り寿司を土産に持っていった。「わたしが食べるのです」と言えばすむことだ。
 娘は装具を着けているが、もう堂々と一人で歩けるようになっていた。ちょっと回りから浮いてしまうほど“頑張り屋”なので、その点はそれなりに親として心配だが、まあリハビリ効果は上がるに越したことはないから喜ばしいことではある。リハビリをしたくても痛くて起きあがれないご老人たちも同室にはいるわけで、その人たちの心の痛みも理解できるようになるのはもっと歳を重ねてからのことなのかも知れない。
「若い人用だからかわいいデザインにしました」と装具屋が装具の皮の部分に星型の透かしを入れてくれたのだといって喜んでいる。右足に体重がかからない仕組みの機具で足全体を金属の枠で囲んだようなものだ。体重は股及び腰にかかる。ひざだけは曲げられるようになっていてまるでサイボーグのようである。左足用の靴はかかとが6Cmぐらいあり、左右の足の長さを合わせてあるわけである。これで骨が完全につながるまで1年ほど過ごすらしい。気が遠くなる思いだ。
「すごく背が高くなった気がしてなかなか気分がいいぞパパ。Gパンでも履けば外人プロポーションだな、昔から外人になってみたかったんだよ私は。視野も広がるな」
 DNAが濃すぎた(?)のだろうか。男の子のように育てた弊害なのだろうか。わたしと同じような願望を抱いている。まっ、いいか……浅草を昔のように母親と一緒に自由に歩けるようになってくれれば、それでいいのだ。




              




mk


造花も満開だ

これはママチャリ

ゴミバケツがいい味

睡蓮

一酸化炭素中毒

頑張れよ!

そんなバナナ

小さなおばさん

中を見たかった

気高いイチヨウサクラ
Yahoo!JapanGeocities topHelp!Me