45〜46年前の写真だと思う。鹿児島の中名(なかみょう)という場所だ。後ろに見える遠浅の海岸は今は無い。東洋一の石油備蓄基地になってしまった。
わたしの誕生日
2011年1月28日(金)「 わたしの誕生日 」

 57歳になった。大げさな感想は何ひとつ無く、それなりの心境。
 徹夜仕事から「明け」で帰宅すると、玄関脇にあんこを詰めたタッパーが置いてある。
「ああ、誕生日だからお袋が持ってきてくれたんだな」とわたしは思った。200mしか離れていないが、この季節だし老体には結構難儀な距離であったろう。しかも到着してみると誰も居なくて、あんこだけを置いてトボトボと帰った彼女の心境を考えると、すまない気分になった。耳がもうほとんど聞こえないので、電話で居るか居ないかを確かめてから……ということができない。

 しかし、あんこはわたしのために持ってきたのではなかった。翌日ちょっと手土産を持って訪ねてみると、部屋の中がちょっと異様である。座布団を敷き布団に見たてて寝床が3人分敷いてあるのだ。
「あん人たちがまた昨夜来てなあ、寝る所が無いち言うもんだから泊めたとよ」
 それぞれの床の枕元にはお茶とミカンと、あんこと煮物とイチゴを混ぜ合わせた魔化不思議なものが皿に盛って置いてあった。
「あん人たちって誰やったけね? また知らない女も来たと?」
 わたしは冷静を装って笑いながら尋ねた。なにを馬鹿なことを言って! とか、しっかりしなさいよ! とかは言ってはいけないのだそうだ。ゆっくりゆっくり、たくさんたくさん話をさせてあげなければいけない。
「お父さんにな、あの世で女ができてな、その女を連れて見せびらかしに来たとよ。マツエさん(母の母親)もいっしょに来たのは何でやろかいなあ?」
 わたしは思わず笑ってしまった。いや、笑顔で対応しなければいけないのだ……、と身構えたのかも知れない。何があっても驚いたり、怒ったり、叱ったりしてはいけないらしいのだ。

 テーブルの上には父母が鹿児島のどこかの菖蒲園に行った時の、とてもほほえましい写真がいつも飾ってあったのだが、その写真の中の女の顔がくり抜いてあった。穴の回りもかなり傷ついている。
「この女がな、まっこて憎かこと、あの世でお父さんをだましたんだと思うとよ」
 写真を手に取って、女の顔を指でバチバチはじいているうちに穴があいたので結局切り抜いたのだそうだ。それが自分であることには気づかないのである。わたしは思い切ってその女は母自身であると告げた。
「そうなあ、なんか似てるとは思ったけどなあ……」

 持参したあんパンを一緒に食べ、お茶を御馳走になった。
「昨日は俺の誕生日じゃった。玄関に有ったあんこはあんたからのプレゼントじゃっち思うたよ」
「いくつになったとな?」
「もう60歳になってしもうたよ、還暦じゃ」
「そうな。ところで……あんたは誰の子じゃったかなあ?」
 残された時間は、もう、そう長くはないのかも知れない。ひとり息子の歳もわからなくなった。極端に70歳ぐらいに言えば冗談だと気づいてくれただろうか。
 古いアルバムをたずさえて、なるべく多く母の所に通おうと思った。1枚ずつ写真を眺め、それについてああだったこうだったと、楽しかった日々を細かく思い出すのがこの病気にはとても効果があるのだという。
 早く春にならないだろうか。彼女に海を見させてやりたい。




                





 
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