鳥を観る人
07年11月18日(日)「 鳥を観る人 」

 サザンカの写真でも撮っておこうと思いたち、見沼自然公園に行く。妻がヤフーオークションで友人たちの絵を売っていて、一応わたしもアートディレクターという肩書がある(今決めたんだけど)ので常にモチーフやテーマ、およびそれらの資料準備を怠らないようにしなければならないのだ。なんちゃって。今日は先日のボウズ(10月30日)のリベンジマッチをと考えていたのだが、そうそう遊んでもいられない。

 花の絵を中心に描いている画家・春山うめさんのために、サザンカの写真をたくさん撮っておくつもりでいたのだが、だんだん我(が)が出てきてしまって自分自身の作品お写真のようになってしまった。絵のための資料写真なら、遠近と上下左右を花色ごとに数カットずつ正確に撮っておけば事足りるのだが、わたしも一応アーチストだ。のめり込みやすい質(たち)なのである。が、所詮はコンパクトデジカメでのスナップ撮影なのでたいしたことはできない。面白構図と奇天烈企画での勝負となる。画質や解像度なんてのはこの際無視だ。ピンぼけでも場合によってはOKとなる。
 見沼自然公園は周囲4kmぐらいはあるだろうか、普通の速度で隅から隅まで歩いてパトロールするとちょうど1時間ぐらいである。サザンカの他にはたいした花は無かったが、小春日和というのだろうか、返り咲きというのだろうかツツジが2〜3輪、日向にはタンポポもチラホラといううららかさである。枝から落ちたサザンカの花の横で、黄色いタンポポがポツンとやわらかな陽光を浴びて咲いている様は、同じく妻が扱っている画家・颯田 靖などにピッタリのテーマだ。彼の絵は“詩的であること”が重要なファクターになっている。
 花が少ないのでついつい“やらせ写真”のようなものに興味が移って行く。ログハウス風の公衆便所の入り口の壁に、枯れ枝を強引に取り付けてアンドリュー・ワイエス調の“絵”を撮った。なんとなく“意味ありげ”である。そんなことばかりして遊んでいると、散歩の親子連れ(フィリピン人の母親と子供3人、1人はベビーカーだ)が寄ってきてわたしの行動をを好奇心むきだしで見ている。 男の子が丸々と太ったカマキリを持ってきて、写真の中のどこかに入れるとかっこいいんじゃないかとしつこく言う。物怖じしない奴だ。
 初めは楽しかったのだが、じきに相手をするのに飽きてしまった。この歳になるともう子供はウザイ。それにしても、どうしてわたしにはいつも子供がたかって来るのだろう。スキがあるのだろうか。
「この季節のカマキリは脂が乗っていて焼いて食うとうまいぞ」というと男の子はゲボッと吐く真似をして笑いながら走り回った。
「あぶらだって! アブラ! アブラブラブラ〜!」とか言っている。アブラカタブラの方が面白いのに……と同じレベルでくだらないことを考えてしまった。精神年齢の低さを反省する。
「おなか美味しいヨ。ブッちぎって食べるよ、お汁ジューシーよ」
 フィリピン人母親はどうやらその手の冗談に慣れている様子だ。ウォータービジネス(水商売)系の方とお見受けいたしやしたネ、わたしは。いい意味で、とても明るいお馬鹿さんである。能天気に振る舞うことでサッドなマイハートをセルフでコントロールできるタイプなんだなあ(ルー大柴みたいな言いまわしだ)と思った。
「ウーハッハー、ウッフッフー、イーッハッハー、ハー」 フィリピン語で笑っているのかどうか分からないが、どこか懐かしいようなおおらかさである。そういえば幼少の頃、鹿児島の農村のオバチャンたちは野良仕事の途中でわたしを見かけるとからかって、そして芋を握らせておおらかに高笑いしたものだ。
「勉強ばっかりしちょらんじ、芋食って、屁こいて、西郷どんのごっ太か男にならんななー、ミーちゃん、アーッハッハー!」
 心外だったが、教師の息子だったわたしはガリベン君のように見られていたのかもしれない。わたしはオバチャンたちの高らかな笑い声に包まれて、西郷隆盛の放屁の音と匂いを想像した。

 鳥を観ている人がたくさんいる。望遠鏡を三脚にセットして押し黙ってじっとしている。バードウォッチングとはちょっと違うようだ。いわゆる「鳥屋」と呼ばれる、鳥の写真愛好家たちである。公園内の大きな沼は鴨類をはじめとして水鳥でいっぱいである。カワセミも多い。ふと思い出した。さっき話した画家・颯田 靖に“キジバト”を見かけたら撮っておいてくれと頼まれていたのだった。さらにシジュウカラ、モズ、オナガ、その他有ればあるだけ欲しいというのだ。何やら鳥の絵を描いてみたくなったので資料を……という訳である。
 沼を離れて林の中に入ると、すぐにキジバトがいた。笑えるほどのラッキーさである。15mぐらいまで近づいてパチリ。が、こ?ん?な?も?の?な?の?……なのである。小さい! これじゃ絵の参考資料には到底ならない。わたしのデジカメは3倍ズームでしかないのだった。うーん、もっと近づけってことか? そりゃあ無理ってものだぜ、わたしは考え込んでしまった。
 沼へ戻り、鳥を観る人々を観察する。正確に言うと、彼らの機材をだ。50万も100万も出資する気はないが、光学……じゃなかった、後学のために見ておくのも悪くはない。
「ウワー、世の中はホントにもうすっかりデジタルなんだなあ」
 みんな、ジ〜ッとカメラのファインダーを覗き込んでいるものとばかり思っていたわたしは、ちょっと驚きと感動をおぼえた。悠然と椅子にかけてお茶などを飲みながら、デジカメの液晶画面を見つめているのだ。
「そうかそうか、これがデジスコというやつか!」
 フィールドスコープ(簡単に言えば望遠鏡だ)にコンパクトデジカメを工夫して取り付け、写真撮影する方法である。デジカメとスコープの合成語だろうか。これだとフィールドスコープの倍率とデジカメのズーム倍率をかけた倍率になるので、100倍、200倍というのも割と簡単にできるらしい。つまりだ、50mぐらい離れた小鳥でも画面いっぱいぐらいの大きさに撮影可能なのである。ピンキリだろうが、うまくすれば10万円かからない。流行るはずである。だって同じ倍率をデジタルであれフィルムであれ一眼レフカメラとその専用望遠レンズで得ようとするなら、レンズは1m近い長物になるだろうし、出資は100万円ぐらい軽くかかるんじゃないだろうか。
「なるほどなあ、デジスコって手があったか!」わたしは嬉しくなってしまった。何台かのデジスコを見て回る。けっこうお手軽なセットもあって好感がもてた。わたしはますます嬉しくなって色々と彼らからノウハウを得たくなってしまったが、ちょっと目に見えないバリアのようなものを感じたので話しかけるところまではいかなかった。それに余り初歩的過ぎる質問も失礼というものである。多少は勉強してからでないと、会話すら成り立たない。

 夜になってバードウォッチング及びデジスコ関係のサイトをさまよい情報を収集しまくる。いくつになっても気の多いオヤジである。そして絞りこんだ選択しは2つである。つまり“鳥を待つ”か“鳥を追うか”の違いなのだ。さんざんまよった挙げ句、わたしは後者を選んだ。つまり、より大きく写せるのは前者であろうことは分かりきっていたが、座って鳥を待つことはわたしにはできない。ヘラぶな釣りに興味が湧かないのと同じである。そして2時間後にはヤフーオークションで高倍率ズームデジカメを落札した。コレクションしている訳ではないのだが12台目のデジカメである。パナソニックのルミックスDMC−FZ5というもので、光学レンズ12倍、デジタルズーム4倍というものである。デジタルズームはオマケみたいなものだから48倍になると謳ってあっても使いものにはならないし、レンズがライカだといってもどうせ日本製OEMだろう。しかしレンズだけで12倍ならちょっと鳥に近づけばなんとか大きく写せるかもしれない。2倍ぐらいのコンバージョンレンズをつけて24倍、ダブルコンバージョンにして48倍……夢は膨らむ。ま、とにかくだ、わたしのシステムは小ぶりで動き回れるものでなければならない、のさ。グァーハッハッハ、ハー!

 バードウォッチャーが“鳥見人”ならデジスコは“鳥待人”だ。そしてわたしは“鳥追人”になるのだ。しかしながら…だ、わたしの次の休日は9日後である。まったくもってトホホだ。まあ、あせることもないか。冬は長いのだ。




              




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