「 青春18チッキ 」
わたしが大学受験のために上京したのは、もう30年以上前ということになる。まだ新幹線も無く(東京・大阪間はあったような気がするが)、飛行機代も異常に高くて、九州からの上京だと普通は(金持ちは別だが)寝台特急か、鈍行普通列車を使ったものである。
もちろんわたしも超一般庶民なので、寝台特急にした。余談ではあるが料金は特急券込みで1万円ちょっと、飛行機だとその3倍はしていたと思う。今風にいえばブルートレインだ、名前はたしか「はやぶさ」だった。
夜の8時頃に鹿児島を立って、東京には翌日の朝8時頃に着いた。約12時間だ。時代が時代だからね、いや、時代なんか関係ないのかもしれない。夜行列車の中というのはとにかく色々なことを考える。自由になったぞ! と思う気分も当然強いが、受験のこと、親のこと、女のこと、金のこと、将来のこと、考え出すととまらない。で、結局寝台特急なのにあまりよく眠れず、途中で止まった駅の名前ばかりがいつまでも頭に残っている。「小郡〜!」なんてアナウンスが、いつまでも耳の奥で鳴っていたりするのだ。
B寝台というのは3段になっていて他の人に悪いから、眠れない人は自ずとデッキに出て窓の外を眺めたり、たばこを吹かしながらビールを飲んだりする訳だ。未成年のわたしはビールが買えないから焼酎を飲んだ。鹿児島という県は焼酎にたいして異常に寛容である。
“チッキ”と言うのは“チケット”がなまった言葉ではないかと推測するのだが本当のところはわからない。でもおそらくそうだ。
今はどうなのか知らないが、1枚の乗車券にサービスとして20Kgぐらいまでの荷物2個まで無料で配達してくれる、という制度があり、おおむねそれを“チッキ”と呼んでいたような気がする。ところがこのチッキ制度は駅留めなのが“玉に傷”であった。しかも指定の駅が決められており、運んでくれるのはその指定の駅までで、あとは個人個人で自宅まで運ばなければならないのだった。
わたしは上京して(実際は埼玉なのだけど)すぐに西川口にアパートをかりたが、チッキの荷物はとなりの川口駅で止まっていた。1駅区間を自前で運ぶ訳である。わたしの荷物は超レトロな「柳行李(やなぎごうり)」2個だった。電車に乗せて運んでもいいし、タクシーで2個いっぺんに運んでもよかったのだが、なぜかわたしはどちらの方法も選ばず1個ずつ担いで部屋まで運んだのだ。2往復である。電車の乗り方が分からなかった訳ではない、柳行李が恥ずかしかったということもない、もちろんタクシー代をケチった訳でもなかった。師走のうすら寒い町中を20Kgの柳行李を担いで2往復した理由はなんだったのか、わたしはその後、時々考えてみたりしたが結局その理由は自分のことなのにわからなかった。
駅の壁に貼ってある「青春18切符」のポスターを見たとき、なにかひらめいた気がした。「青春」という言葉が少々恥ずかしい気がしたが、「青春」というのは素晴らしいものであると同時に「病気のような」ものでもあるのだ。
色々と思い出してみると、わたしには時々自虐的行動をとりたがる、もしくはそうすることで満足するようなところがあって、家出をするにも歩いて東京まで行こうとしてみたり、好きな女とわざと別れて自分を追い込み、詞や曲を書いたりしたことがあった。今思うと馬鹿で、間抜けで、軽薄な青春時代だったなあとつくづく思う。被害者(当時の彼女)には申し訳ないことをしたなあと猛省している。ちょっと大袈裟だけど。
「青春18切符」というは実にお得な夢のあるものなのに、わたしの「青春18チッキ」は思い出すだけでも実に損で肩のこる情けないものだ。
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