06年8月28日(月)「 晴耕雨読 」
恥ずかしい話だが“晴耕雨読”という言葉の意味を割と最近まで誤解していたのだ。どういう訳かどこかで宮沢賢治の“雨ニモマケズ風ニモマケズ”の詩とカブッてしまい、自分の中で激しく思い込みをしていたのである。「志ある者は晴れた日には真面目に田を耕し(労働にいそしみ)、雨の日には来るべき飛躍の時のために勉学を重ねなさい」という教えの四文字熟語だと勝手に解釈してしまっていたのだ。「座右の銘はなんですか?」と尋ねられて「晴耕雨読」と答えた記憶もある。実に恥ずかしい。ちなみに話は逸れるが妻の座右の銘は「棚からぼたもち」だ。絶句である。
“晴耕雨読”が単に「悠々自適な生活」の意味であると知った時、わたしは騙された気分になって怒った。「チクショウ! なんてこった! 今まで糞真面目にやってきたのに! これからは晴の日も雨の日も遊んでヤル!」と思ったものである。晴遊雨遊だ。
8月はオフ日が10日もあったのにほとんど屋外に遊びに出かけていない。ぐうたらしていた訳じゃないので後悔はないが、ペンにも絵筆にもちょっと疲れたしモンワリとした頭になってしまっている。そうは思いたくないが歳のせいもあるかも知れない。
「いかんいかん、晴遊雨遊こそが俺らしさじゃないか! ワタカを1匹も釣らない年があってはならんのだ!」今にも降り出しそうな曇天を無視してエイヤッと出かける。案の定、途中で少し降られたが気分は上々。
カブで3時間走って群馬県館林市多々良沼に到着。沼から流れ出す多々良川の土手を歩く。笑える程のライズを発見、おそらく1000匹ぐらいはいるであろうと思われる巨大な群れにフライを落とす。が、どうした訳かまったく反応が無い。ものすごい勢いで何かを食っているのだが、フライは無視され続けた。手を変え品を変えても結果は同じ。半袖シャツでは肌寒いぐらいだからおそらく水温も低いのだろう。水中のボウフラかなにかを食べているらしい。しかし沈むフライは使わなかった。
12〜13歳ほどの少年が付かず離れずずっとわたしの後について来た。見ればバスロッドをもっている。「何?」と思いきって聞いてみると、フライに魚が食いつく瞬間を見たいというのだ。わたしはますます焦ってしまったが、釣れないことに変わりはない。水門の手すりに座ってフライ講釈でごまかしてしまった。彼はフライの道具を買うのにこづかいを貯めているのだ、と話した。
「月曜日はだめですよ、魚は土日で痛めつけられておりますから疑似餌には見向きもしません」と少年はジジイのような口をきいて去っていった。そして不思議少年はさらに50mほど離れてから「おたっしゃで!」と言った。館林市では流行っているのだろうか。変だ。
誰もいなくなった岸辺で写真を撮る。曇天だと実像と水面に映った虚像の明度差があまり無いので上下対称の絵のようだ。牛蛙が鳴いた。そうこうしている内に、いい向きの風が少し吹いてきたのでわたしはもう一度根性を絞り出してラインを飛ばした。風に乗ってフライがきれいな弧を描いて着水した。水面に映った空が少しだけ青い。あしたは…おそらく晴天なのだろう。そしてわたしは徹夜仕事だ。また風が少し吹いてラインが引かれ、先端のフライが一瞬水中に潜った。そしてその瞬間、1000匹のワタカの中のたった1匹の慌てん坊が反射食いをした。4時間ねばって手にしたその魚は「かわいそうだから釣られてあげたぜ」と目で言った。1匹釣れれば気分は180度変わる。「おたっしゃで!」わたしはワタカを水に戻した。さあ後は帰るだけだ。気分は悠々自適である。
「7時には帰宅します」と妻にメールを打つ。洒落のつもりで件名に「せいこううどく」と入れた。帰宅すると妻は怪訝そうな顔でわたしを迎えた。妻は携帯電話を差し出して「なに?」と聞いた。そこには「性交有毒」とある。文字化けは深い(ような気がする)。
mk