2022年02月22日(火)「さよなら西郷輝彦さん」
西郷輝彦さんが20日にお亡くなりになった事を知った。75歳は早すぎるよ。自分に置き換えて考える(?)と、あと7年しか後が無いことになる。ああ嫌だいやだ(笑)。
西郷さんはわたしの中学校の先輩である。鹿児島県谷山市立谷山中学校(当時)。現在は鹿児島市に合併して谷山市というのはもう無い。全国でも1、2位を争うマンモス校で1学年が13クラスあった。谷山小学校というのはさらにマンモスで、1学年が23クラス有ったらしい。らしい、というのは、わたしは中学からの転校生だったから。だけど13クラスでも充分カルチャーショックだった。喜入町中名村という田舎からやってきた「お山の大将」は当然いじめの洗礼を受けたが、目に隈を作りながらも持ち前のひょうきんさで乗り越えた(笑)。
色々思い出してきた。ウィキペディアには絶対書いてない(笑)情報だ、記録しておきます。
@西郷輝彦さんのご実家は中学校の近くで衣料品屋さんをやっていた。制服購入の指定店になっていたので、当然わたしもそこで購入した。当日やけに混んでるなあと思った記憶がある。後になってそこが西郷さんの実家と分かり納得したのだが、母がその時「芸能人なんか昔は河原乞食っち言われおったがなあ」とつぶやいたのを覚えている。江戸時代の“門付け”じゃあるまいし……と思ったがわたしは黙っていた。母は芸能が嫌いだったのだろうか? 嫉妬だったかも知れない。そのくせ当時はまだ珍しかった蓄音機なぞを持っていて美空ひばりや三橋美智也の歌を熱心に聞いていたのだから笑える。
A中学1年の秋ぐらいだった。西郷さんが校長室にやってきたのだ。出身校へのお礼参りと言うやつだろうか。わたしはそれを聞きつけて仲間数人と走った。校長室の窓側に築山があってそこには結構大きく育った蘇鉄が植わっていた。わたしはそれに取りついて中を覗いた。クリーム色のスーツを着た青年が背中を見せて立っていた。「振り向け、振り向け」と思ったが遂に最後まで西郷さんが振り向くことはなかった。後になって、あそこで「17才のこの胸に」を大声で歌っていれば絶対振り向いただろうなあ、と思ったがW後の祭り”だった。ヒット曲はたくさん有るだろうが、わたしはこの曲が一番好きで、今でも時々口ずさんだりもする。哀愁がある。たしか西郷さんはお兄さんを水難事故で亡くしておられたと思うが、変な言い方だがそのことも西郷さんを好きな理由になったのかもしれない。
それから1ヶ月ぐらい経った頃、音楽室に行ってみると大型のオルガンのようなものが置いてあった。よく見ると「西郷輝彦様 寄贈」と書いてあった。芸能人はすごいなあ、わたしはすっかり参った。ヤマハのエレクトーンだったか、ビクターのビクトロンだったか記憶にない。と、音に関しての記憶もまったく無いので、おそらく新し過ぎて弾きこなせる先生が誰もいなかったのだろう、と今でも時々思い出すことがある。古い事だけはよく覚えているのだよ(笑)。
B西郷さんが経営するレコーディングスタジオが表参道の青山通り沿いにあった。「チェリーアイランドスタジオ」つまり桜島である。CMのボーカル録りで1度使わせて頂いた。その日偶然オーナーの西郷さんもいらしていて、スタジオの方へもお顔を出されたのだが、わたしは御挨拶をするいいチャンスと思い、ありきたりだが中学の後輩であることや、音楽の仕事をしていることをお伝えした。わたしは歌い終えた後でミキシングコンソールの前に座って試聴していたので、まあ西郷さんはわたしをWレコーディングエンジニア”だと思った様子で「いい音にまとめてらっしゃいますねえ」などと世辞を言って下さったのだった。フォーライフレコードの宣材ジャンバーを着ていたので無理もない。西郷さんはその時もクリーム色のスーツ姿だった。「芸能人はクリーム色だ〜」と思った。後年南こうせつさんにステージ用のスーツをもらったが、その色もクリーム色だった。わたしはそれを着て初めて芸能人を意識した。
歌謡曲系芸能界では歌入れをしたあとに、歌手本人がコンソールの前に座るなんてことはないんだろうか? と聞いてみたい気もしたが黙っていた。そのかわり突然「♪風に吹かれた花びらを浮かべて波は遠ざかる(17才のこの胸に)♪」と気持ちを込めて歌ってみた。中学生の時のリベンジである。西郷さんは振り向いて「あなたが歌い手さんだったの?」と笑った……んなことあるかいな!(笑)
西郷輝彦さま、安らかに。
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