「 20%のサービス 」
柔道のヤワラちゃんが妊娠したということで、テレビ各局がニギニギしく大騒ぎしている。わたし自身は「よかった、よかった」と思うぐらいで興味は無いが、脱線事故や中高生の殺人やら辛い事件の多い昨今だ、久しぶりにめでたい話題なのでテレビ局のはしゃぎようも理解出来ないことではない。
さて、そんなことはともかく、気の早いテレビ局がヤワラちゃんと谷選手の顔を合成して、これから何ヶ月か先に出てくる子供のモンタージュ写真を掲げているのには大いに笑ってしまった。
失礼な話で申しわけないが、お二人共通の特徴である“ヘの字型の細い目”からは想像もできないような“パチクリ目玉”である。どう考えても意図的な過剰サービスとしか言いようがない。
「どういうこと? どういうこと? どういうこと?」(今我が家で流行ってるギャグ、超早口で語尾を持ちあげて言う)わたしは連発した。
“意図的な過剰サービス”? “モンタージュ”? “修正”??? わたしはある年の「成人の日」を思い出した。
それはちょうど31年前の話である。なぜそうはっきり言い切れるかというと、わたしもその時20歳だったからなのだ。つまり、わたしも新成人の対象者としてその成人式に呼ばれていたのだった。しかし出席はしなかった。「ケッ!」と思っていたのと、あわれにも「着る物」が無かったのである。
ところが、人生はそうそう単純な脚本でもないようで、わたしは意外な“配役”でその成人式に参加することになった。「似顔絵コーナーの画家」としてである。
埼玉県川口市の「げいじょう美術研究所」という、いわば美大予備校のような所に通っていたわたしの実力は、まあそこそこではあった。2浪目だったのでそこそこ当たり前に成長を遂げて“下手くそではない”ぐらいの技量である。
研究所の所長は光風会の大物で、埼玉県美術展の審査員などをしていた関係で、おそらく川口市から依頼されたのだろう。「成人式のアトラクション“似顔絵コーナー”の絵描きさんを5人ばかり頼んまっせ」ってなものだったにちがいない。
で、わたしのところにも話が回ってきた訳である。他の4人の面子を見ても、特に脈絡が無かったところをみると「上手な人を」でもなく「才能がある人を」でもなく、まあその日暇な奴なら誰でもよかったようなのであった。ただし、その5人はことごとく絵の作風が違う上に、普段は似顔絵なんて眼中に無いので、1度も似顔絵というものを描いたことのない集団だったのは確かなことであった。
グリーンセンターという所で行われたその成人式は、昨今のように酔っぱらった暴徒集団に占拠されることもなく、またパララパララ車にハコノリした連中のお迎えなどもなく無事に終わった。そして新成人たちは昨今のように終了後、即クラブやキャバレー(?)に直行ということもなく、植物園でもあるグリーンセンターの庭に出てきて、写真を撮ったり家族と語らったり、野点コーナーやきき酒コーナーなどを歩いて回るという、まったくもって実に理想的かつ平和な成人の日なのであった。
「20歳の記念に20歳の顔を残そう!」
政治団体の掲げそうなキャッチコピーが効を奏したのかどうかわからないが、わたしたちの似顔絵コーナーはひときわ人気があって、一人の描き手の前に常時2人ぐらいお客様(?)が待っている状態ではあったのだ。
わたしは事実、似顔絵を描くのは初めてだったし線だけで絵を描くというのに不慣れだったのだが、割とのみこみは早い方なので最初の1、2枚はなんとなく申し訳ない絵になってしまったが、慣れてくると大胆な線でグイグイと描いて数をこなした。慣れてきて余裕が出てくると最後に「よし!」と相手に聞こえるか聞こえないかギリギリの音量でつぶやいたりすると、相手はもう十分納得してしまうのだった。いわゆる「忍者ハッタリ君」ってやつである。
さらにもっと重要なファクターがあることにも気付いた。それは数学の方程式のようなもので、似顔絵の作風などはもうどうでもよくて、ただただその数式に法って描いてあげるだけで、もうほとんどの客が満足気にウフフッと笑うのである。似顔絵というジャンルの絵にしか当てはまらないが、わたしは開眼したような気にもなった。
つまりだ、長所は10%増しに、そして欠点は10%引きにして描いてあげるということのだ。それ以上のパーセントで増減をすると逆に客が気を悪くするし、だいいち度を過ぎるともう似顔絵ではなく別人の顔及び劇画タッチになってしまうのであった。事と場合によってはトラブルにもなり得る。
「あたし、こんなに顔細くないし〜、みんなあたしのこと中華饅って言ってるぐらいなんだし〜、細くしすぎじゃネエ〜?」となって殴られるケースもありそうなわけなのだ。
「サービスは20%の幅の中で。極意、極意!」わたしは悦に入りながら、その日の日給3000円分の仕事をすべく次々に枚数をこなしていった。嫌な奴である、同じ年の連中を前にしてわたしは25〜26歳を演技していた。
ふと1番端の高山さんという3浪の先輩のところをみると、順番待ちの人がひとりもいない。さっきまで2人待っていたようだったが、今は座って描いてもらっている晴れ着の女性1人だけである。そして女性が何故かジリジリというかソワソワというか落ち着きがないのだ。わたしは気になって、そっと背筋を伸ばす振りをしながら高山さんの絵を盗み見た。
わたしはパイプ椅子の上でのけぞったまま真後ろにひっくり返った。
それは……、似顔絵ではなくて「力強いデッサン」だった。しかも顔を真っ黒な固まりとして捕らえ、ゴリゴリと鉛筆で塗ったくった挙げ句に指でガッシガッシとこすりつけて陰影を付け、もうもうそれはそれは立派な芸術作品になりつつあったのである。しかも似ていない。パッと見だと石でできた顔だ、重厚で重そうである。20歳の瑞々しい女性の肌などみじんも感じられない、洒落ではないがそれこそ石女(うまずめ)である。成人の記念にするにはちょっと酷な絵であった。しかもその時点で、30分以上かかっているようであった。
「あ、あの〜、もういいですから」と晴着のお嬢さんはハンベソで言った
「いや、もうちょっと待ってください、まだ似ていないので……、ガシャガシャ、ゴシゴシ、ガリガリ……」
どこまで描いても似てきそうになかった。それに石像のようなものに似ていると言われても悲しい。高山さんはそういう純朴な人だったのだ。どこか風貌も「モアイ像」に似ていた。そして彼は、結局それからさらに5分ほど描き続け、できあがった“お作品”にサインまで入れて彼女に渡した。
「ど、どうもありがとうございました」
彼女は引きつった顔でお礼を言いながらそそくさと立ち去ったが、去り際に首を左右に振り「ゴキッ」と音をさせていったのをわたしは見逃さなかった。そしてそれ以降、高山さんの前には誰も座らなかったのである。おそらく彼はあの日2枚しか描いていない。
ヤワラちゃんと谷選手の顔を合わせたモンタージュを見ながら、わたしはもう1度ブハブハと笑った。
そして31年前のあの成人の日を思った。
「あの彼女は、まさかまだ持っていたりしないだろうなあ。捨てちゃっただろうなあ高山さんの描いた“お作品”、もう一度見て笑いたいなあ、惜しいなあ、今なら20万円はしそうだなあ」
高山さんはその後、日本美術界の王道、東京芸術大学彫刻科を出て、現在はますます朴訥とした感じにも磨きがかかり活躍中である。
世の中全体が“よいしょ”されることに慣れすぎてしまった現代、ややサービス不足の奴をみると逆に実に新鮮であったりするなあ、と思ってみたりするのである。
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