2012年01月16日(月)「 音信復活 」
時々、「ホームページを見つけました!」とメールをいただくことがある。多くはシンガー・ソングライターだった頃の古いファンの方だ。
「私は大好きでしたけど、まったく売れませんでしたねえ」とか「もう少し背があったら格好良かったのにねえ」とか本当のこととは言え、ちょっとむかつくお便りもある。まあしかし、30年も前の事を覚えて頂いているというだけで感謝感激しなくてはならない。
音信復活という言葉が正しいかどうかは別として、とてもうれしいメールが届いた。宮園千穂美さんからのものだ。
一応シンガー・ソングライターの現役を退いて、ビクター音楽カレッジというところでボーカルを教えることになり「歌手研修科」というコースを担当することになった。1985年の8月だったと思う。で宮園さんたちはその2期生だったから、その年の冬の入学だったはず……だと思う。
宮園千穂美・黒澤千草・津田京子の3名のクラス。で、この3名の何が一番の特徴かというと、それはもうとにかく、3名とも背が高いということだった。わたしはコンプレックスを逆撫でされる思いでいつも見下ろされながらレッスンを行っていたが、彼女たちの方ははチビのわたしを馬鹿にすることも無く、言うことをよく聞いてくれ、またとても努力家だったせいもありメキメキと歌の腕前をあげて行ったのだった。学内でのオーディションでは3名ともいつも上位だ。つまり、わたしにとっては自慢の3人娘に育ってくれた訳である。
そして特に宮園さんは、作詞コースにも所属するというガンバリ屋さんだったので、なんとか歌手でもいいし作詞家でもいいし、プロとしてデビューさせてあげたいといつも思っていたのだった。オリジナル曲で勝負するように薦めたり、時にはわたしが曲を提供して宮園さんが詞を書き、コンテストに出してみたりもした。そうそう、NHKの「みんなの歌」に応募して、いいところまで行って賞金をもらったこともあったっけか……。そうだそうだ、ちょっと家は離れていたが、住んでる街も同じだった。
3人娘とは、遅い時間にもかかわらずレッスンが終わるとよくお茶したものだ。イベントの打ち上げでは、飲みすぎたわたしを3人が肩につかまらせ、もちあげて送ってくれたこともある。捕まえられた小さな宇宙人が、両脇から人間にぶら下げられている写真をみたことがあるが、あんな感じだ。わたしがまだまだ若かったこともあるが、あの頃は先生と生徒ではなく、わたしも“もう一花咲かせたい”という気もあって、いわゆる熱い「同志」だったような気がする。
大腸がんを患ってからは、教える現場を離れて運営スタッフとしての比重が大きくなってしまった。チーフディレクターという肩書きは、聞こえはいいが要するに金のやりくり屋である。事業計画を立て、計画達成のために策を練る。生徒募集が主な仕事で、これがまた嫌だ嫌だと言っている割には上手だったりした訳である。
しかし歪みは必ず生ずるのだ。「プロを目指す」とか「プロへの入口」とか、あたかもこの学校で勉強すればプロになれますよう〜みたいな言い回し・謳い文句が、わたしはある日とても嫌になってしまった。レコード会社と直結していますよ〜みたいなことは言ってはいけない気がしたのだ。ビジネスマンになるには心が弱すぎたんだと思う。
企業がやっている学校だから、れっきとした株式会社である。ボランティアでやってる訳ではない。採算性を上げること、黒字を出すことが企業としての指名なのだ。そしてやっぱり、運営スタッフを続けることは気分的にできなくなってしまった。気分で仕事をしていたわけじゃ、もちろんないけれど。
「ホームページをみていると、ボイストレーナー時代の話が全然でてきませんね、嫌なことがたくさんあったのですか」
宮園さんはいつも深読みする娘だったが、当たらずとも遠からずだ。相変わらずするどいネ。
もとい!いやいや、そんなことはない。ありません!いい思い出ばかりである。写真などが散りじりになってしまって整理がつかないでいるだけなのだ。
準備できたら、古い話をいっぱい集めた「新コーナー」を開設しますとも。
※25年の歳月がたってしまったけれど、旧姓のままで書かせていただきました。
mk
みなさ〜ん! まだ歌ってますか〜?
俺、歌唱力落ちてないよ〜!