「 お姉チャンを釣った日 」

 この話はわたしが旅の途中のある町で、その町の可愛いお姉チャンを軟派した……というような艶っぽい話ではないので、そういう話を期待したむきはもうここで読むのを止めていただいた方が賢明である。

 わたしは昭和29年の生まれだから、この話は昭和34〜35年の話だ。つまりわたしが5歳か6歳の時の話である。ふつうはそんな子供の頃のことなど覚えていないのだろうが、わたしの中に映像まで伴って存在するということは、よっぽど叱られて緊張したかもしくは母親あたりが何度も何度もわたしに話して聞かせたかのどっちかだ。さらに先日、82歳のおふくろの所でアルバムに貼られたその頃の写真を見てしまったせいで、さらに記憶の中の映像も鮮明になった。
 わたしが魚釣りを始めたのは、聞いた話だが5歳である。父親が小学校の教師で、休みの日にも近所の子供たちを自宅に集めて習字やソロバンをまったくの奉仕で教えてたので、わたしの回りにはいつもたくさんの子供たちがいた。
 昭和34〜35年辺りの日本の最南端に近い鹿児島県指宿郡である。敗戦からやっと立ち直ったぐらいの頃であったろうと思う。東京とは違いまだまだ村は貧しく、弁当を持ってこれない子供たちに父は昼食時ふかした芋をそっと手渡したと聞いた。そんなこともあって、父は村中から好かれていたようなのだ。で、わたしもついでに村中の人たちから好かれていておもちゃにされていた訳なのだ。
 小学生のおにいちゃんやおねえちゃんが村中の山川へ5歳のわたしを連れまわしたおかげで、わたしは遊びの天才になっていったのだ。中でも釣りが一番のお気に入りになった。明けても暮れても釣りだ。
 わたしの家(もちろん借家で6畳と4畳半の2間、土間もあった)は海沿いを走る鉄道のすぐ横にあったから、おそらく海からはわずか50mぐらいのところにあったはずだ。台風の時などはすさまじいものがあったが、環境的には素晴らしかった。
 家のすぐ脇に小さな川があって、満潮時にはそこまで海の魚があがってきた。その辺に落ちている針金をちょこっと曲げて、その辺の石の下からミミズを採って付け、川に放り込むと海のハゼが釣れた。いわゆる江戸前のハゼと同じものである。立派に晩のオカズになるやつだ。ご飯粒でも釣れた。
 5歳のわたしが1番好きだったのは「見釣り」だった。水が澄んでいるから川底も魚も餌も見える。1つぶのご飯粒に10匹ほどのハゼがたかり、えさを奪いあう様子をわたしはニヤニヤしながら夕方暗くなるまで見つづけた。

 そんなある日、朝からの雨にわたしはいらだち、狭い部屋で竿を振りまわした。竿って言ったって1mぐらいのやつである。しかしその先には糸があり、その先端には針金製の先を鋭く尖らせた釣りバリが付いていたのだ。
 軽い抵抗を感じて振り向いてみると、わたしの3歳上の姉が釣れていた。しかも釣りバリはまぶたにささっているじゃないか! 
 子供というのはある意味非常に残酷だ。大変なことになった、と解っていてもわたしはその時おかしくておかしくてしかたがなく、ヘラヘラと笑ってしまったのだった。笑ってごまかそうとしていた訳ではない。
 わたしの笑い声で事態に気付いた母親が取った行動がまたおかしくてしかたがなかった。動転していたのだろう、母はこともあろうにわたしから釣り竿を取りあげ、釣られた姉を引っ張りながら、そのままの格好で病院に走った。無医村の多かったその近辺・その時代に「瀬々串」という名のわたしの村には医者がいた。距離にして200mぐらいだっただろうか。そして、わたしも母と姉の後を追った。その時もまだ笑っていたそうだ。
「かあちゃん! 糸ば切って走ればよかじゃなかか!」と言おうと思ったが言わなかった。ただただおかしくて笑っていたのだった。
 幸い姉の怪我は軽く、まぶたにしばらく傷を残したが眼球には傷も付かず事無きを得た。その後もわたしは似たような事件を度々起こし、その度に母親に思いっきり叱られたが、何ひとつ改心することもなく数年後には村で一番の悪がきになった。悪行の数々は挙げるときりがないが、おいおいどこかでばらしてしまおうと思う。中には懺悔せねばならないものもある。

 お姉チャンを釣ってしまった罰があたったのか、それからしばらく経って、ドライバーと木ネジで遊んでいて手元が狂い、わたしは自分の左眼をドライバーで刺してしまった。その傷跡は白眼の部分に40歳ぐらいまであったが今はもう消えてしまった。一生残るんだろうなあと思っていたので、消えてしまって少し淋しい気分だ。こういう淋しさって何なんだろう。




            





某月某日某所某笑
お姉チャンを釣った日