「 娘の旅立ち 」 2005年 3月21日(月)
「アトリエ兼自分の住まいとして、他所に部屋を借りたけんね、わたし一人暮らしを始めるけんね、ウフフ」と娘がのたまわった。2日前である。
いつかそういう日が必ず来ることはわかっていたし気配も感じていたが、あまりに急だったのでちょっと悲しい。
そしていつでも重大なことは結果報告だ。相談というものがない。“やった者勝ち思想”には多少腹立たしい気分もあったが、わたしも妻もかつて親に対してそうしてきたのだから、二乗のDNAが強く受け継がれたわけである、文句は言うまい、言えまい。
しかしまあ、親馬鹿な発言ではあろうが、よくできた娘ではあった。(別に亡くなった訳ではない)親(わたし)が勝手に安定会社員生活を辞め、じり貧作文生活に突入した折りにも、大学の学費はほとんど奨学金でまかなってくれたのだ。情けない親ではある。高校の時から「モスバーガー」でバイトを始め、今までにかなりの額を貯め込んでいるらしい。おそらく我が家で一番の小金持ちである。
そんな風だから、という訳でもないのだが小遣いも高校生になってからはほとんどあげたことがない。若い頃、わたしや妻は金がなくなるとただじっとしていてなるべく金を使わないようにしている「我慢潜行タイプ」だったのに対し、娘はそういう状況になると、サッサッとバイトを自分で決めてきて自ら稼ぎを増やすことを画策する「自力増収タイプ」なのだ。
「お前はやることがすごいなあ、たくましいなあ」と、わたしは内心、自分に一番欠けたものを持った娘を複雑な気持ちで誉めたが、娘はわたしに「すごい奴」と言われることに快感をおぼえたらしく、ますます“やった者勝ち的独立心”の強い性格になったようである。中学・高校・大学と繋がった学校で、しかも女子だけの学校に通わせたので、男に対して免疫が無さそうなのが心配だが大きなお世話だ。
ついこのあいだまで夏目漱石の「坊ちゃん」を「ぼくちゃん」と勘違いしてたくせに……関係ないか?
ノビルのノビル具合、もとい、伸び具合を見ておこうと近所(半径15Km以内をわたしはそう呼んでいる)の芝川の土手に行った。
「オイ、オイ、何だ! 何だ! なんだ〜?」
お気に入りの場所は河川工事のためにボロボロにされつつあった。辺りの葦原は刈り払われ、土手は平らにならされつつあった。もともとそれほど水のきれいな川ではないが、川辺の葦やヨシのおかげで多少なりとも水が浄化され、メダカやモロコの住む環境が保たれていたというのに、もう終わりである。
水鳥も多く、そしてその卵や雛を狙っているのかイタチなどもよく見られるいい場所だったのに。フライで亀を釣ったこともあった場所なのに……。
コンクリートで固めるわけではないらしいのが唯一の救いだが、ストレートな岸になってしまうと、水の流れは確かによくなるが汚水は汚水のまま流れて海に到達する。しかし岸辺がギザギザになっていて、そこに葦やヨシの群生があれば、水はより多くのものに触れ(ものとの接触表面積が増えるからね)、汚染物質を少しずつ付着させ浄化されていく訳なのだ。水が練られていくのだ。
「人生と同じなんですなあ、オッホッホッ」
わたしはジョージ秋山の「浮浪雲」に出てくるご隠居さんのようにひとりごとを言った。面白いことも辛いこともいっぱい経験して人は一人前になるのだ。旅立つ子供を親が引きとめてはいけないのだ。人生は歩いてきた距離だ、自分の足で稼いだ距離だ、他人との接触表面積(?)なのだ。
同じ場所に行きつくにしても、そこに行きつくまでの間にどれだけ多くのことを見、考えてきたかで人生の深みと練れぐあいが違う。谷合いを流れ、土にしみ込み、再び地表に出て岩にたたきつけられ、幾万キロの旅の果てにやっと旅人の口に入る水こそが、玉の水となるのだ。まさに人生だ、ワオー!
考えれば考えるほど、だんだん訳の分からないことが頭の中で回りはじめた。あきらかに何かに動揺している時の思考回路ではないか。
娘のことだ、また娘が家を出てゆくことを考えてしまっていた。もう一緒に遊んでもらえないことを考えていた。変質者にいきなり刺されたらどうすんだよ、スタンガンでも買って持たした方がいいんじゃねえかなあ……、考え始めたらきりがない。
「ウ〜ム、いまさら反対なんかできないしなあ、がんばれよ、とか言った方がやっぱり椎名誠みたいでカッコいいんだろうかなあ……」
土手に2時間ほど座って色々と考えたせいか、あきらめがついた。「諦める」というのは「明らめる」でもあるような気がしたからだ。
すっかり分別臭い老人のようになってしまって、立ちあがる時ため息混じりに「どっこいしょ」などと言ってしまった。まずいなあ、こういうのは実にマズイなあ。元気だけが取り柄のわたしなのに。
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水も人生も他との接触表面積でないかい?