「 蓑虫オヤジ 」
札幌には「岩盤浴」なるものが存在するという。大谷石だかなんだかの上にタオルを敷き、ねそべっているだけで遠赤外線の働きで血行がよくなり、健康になるということ、らしい。
にわかには信じられない、と皆さん思うだろうが、そういうことってきっとあるのだ。わたしも実は同じような効果をいつも体感していたのだ。
それは「地べた浴」である。なんだか聞こえが悪いから「大地浴」にしよう。いや……「オゾン浴」がいいかな? ま、何でもいいか?
わたしの場合はこうだ。ブラリと海辺や川辺のアウトドアへ出かけて行ってテントで眠ると、翌朝の目覚めがすこぶるいい。ものすごく深く眠れて疲れがとれたような気になるのだ。そういう日はその後、一日中眠くなったりすることはなく覚醒しているから、おそらく気分的なものではなくて、地面から出ている地球的な何かがわたしの体に浸透して、人間が本来持っている自然治癒力や活力が高められるようなのだ。まあ、勝手に確信している。
とまあ、そんな布石があってある日、カヌーイスト野田知祐の本を読んでいると、千葉の亀山湖時代の話として「部屋の中でもテントを張って生活していた」というくだりに遭遇した。野田さんはあまりの寒さにそうしたとのことだったが、わたしの頭の中には別の意味でのひらめきが走った。
「そうだ! 部屋にテントを張ろう。そうすれば毎晩キャンプ気分でぐっすり眠れるかも知れない、んだんだ!」
勤め先の社長との確執に耐えられず、寝言でも訳の分からないことを叫んでいた頃だったこともあり、わたしはとにかくぐっすり眠りたい一心で藁をもつかむ思いですぐに実行した。
わたしは2人用のツーリングテントを四畳半の部屋に張り、裸電球を点けてランプの灯りを演出した。そして、延々とせせらぎの音だけが流れるCDを流し、また目覚める頃には鳥の声のCDに切り替わるようタイマーをセットしたりした。余談だが、せせらぎの音は30分で切れるようにも工夫した。なぜならその昔、ハワイの波の音だけのCDを聴きながら眠って、溺れかけたことがあるからだ。
寝具は当然、寝袋である。モンベルのダウンの結構いいやつを買った。すると案の上、それまでの不眠が嘘のように消え、わたしは毎晩素晴らしい眠りを手に入れられるようになったのだった。さらに別の効用として娘もひんぱんにわたしのテント睡眠に付きあうようになり、コミュニケーション増幅にも大いに役立つ結果となった。メデタシ、メデタシだ。但し、妻だけは呆れかえってわたしのことを単なる「蓑虫オヤジ」と呼ぶようにはなってしまったけれど、まあそんなことも、どうってことない笑い話だ。
さて、問題はここからだ。これ以上書くともうあんまり笑えないことになるのだが、書かないとこのまま悲しい話で終わってしまう。
わたしは大体飽きっぽい質なので、そうこうする内に「テント睡眠」には嫌気がさしてきた。初めの内こそはしゃいでた娘もすぐに飽きてしまってソッポを向くようになったので、わたしもテントはじきにたたんでしまったのだ。
所詮、部屋の中のテントで眠っても「大地浴」とも「オゾン浴」とも本質的に違うのである。気付くのが遅すぎる気もしたが、馬鹿だからしかたが無い。
ところがである。テントはやめてしまったけれど「寝袋」がやめられない体になってしまったのだ。別にわたしの体つきが芋虫のようになったわけではないが、布団ではスースーして眠れなくなってしまった。
当時、妻などは真剣に悩み、心配した。
「あなた、心のどこかが病んでいるんじゃないの? わたしにどこか至らないところがあるの? 家庭が嫌なの? どこか遠いところへ一人で行ってしまう前兆なの? 蓑虫って蛾の幼虫なんでしょう? あなたは蛾になるの?」
うるさいんだよ! 誰が蛾になるんだよ! わたしはただただ「寝袋」と相性が非常に良かっただけなのだ。優れた寝袋は体が痛くなることもなく、夏は涼しく冬暖かく、包み込まれて眠る喜びはまるで棺桶のよう、もとい! ゆりかごのようでもあったのだ。愛に満ちていた。
冗談はさておき、恥ずかしい話だがわたしの「寝袋就寝」は早10年目を迎えようとしている。最近になって、やっと自分でもちょっと尋常じゃないような気もしてきたが、この快楽だけはちょっとやめられない。
「ひとんち(他人ん家)に泊まることもあるんだから、そろそろやめたら?」
妻の助言も、ごもっともだと思うし、もういいかなあという気が自分でもするのだが、反面「死ぬまで寝袋で寝た男、キング・オブ・蓑虫」の称号も欲しいような気がする。
どうしようかなあ……「蓑虫オヤジ」はまだ「蛾」になる気がないのだ。
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