「 マイケル・フランクス 」

 太田裕美さんのディレクターはSONYの白川(井?)さんという人だった。
 わたしの「東京City」を気に入っていただいたらしく、太田裕美さんにもあんな感じの曲を……ということで裕美さんに曲を書くことになった。ただおそらくビジネス的に考えたことではあっただろうが、わたしが作詞で吉田拓郎が作曲ということになった。
 わたし自身は「作曲が拓郎さんじゃ“東京City”のような曲には絶対なり得ない」という確信があったが、ビッグチャンスなのでしかたがない。作詞だけでも書かせてもらうことにした。
 “♪ 言えばよかった後悔と、言わなきゃよかった後悔は……♪” 太田裕美さんにかいた「One more channce」の一節だが、それはそのまま「歌手・小林倫博」の心情でもあったような気が、今はする。ちょっとだけな。

 太田裕美さんには本当によくしてもらったので、感謝の意を込めて今度ゆっくりエピソードを書かせてもらうとして、今回はマイケル・フランクスの話だ。
 マイケル・フランクスについては知ってる人も多いかとは思うが、70年代のなかごろに彗星のように現れたシンガーソングライターだ。シティサウンドにジャズのテイストをふんだんに取り入れ、バックメンバーも超豪華、AOR、ソフトアンドメロウの一時期代表であった。
 わたしなどはそのレコードを枕もとに置いて寝たぐらいなのだ(嘘)が、とにかくよく聴いた。レコード及びCDの数は多くはないが、いまでもまだ活動しているのでネット上での情報は多い。検索してみてください。
 
 当時マイケル・フランクスのレコードはワナパー(ワーナー・パイオニア)の扱いだったのだけれど、フォーライフレコードの宣伝部にワナパーからきた浜崎さんという方がいて、これもまた「東京City」を気に入ってくれていて話がはずんだのだった。
 ある日、浜崎さんはとんでもない話をもってやってきた。「マイケル・フランクスの来日公演が決まったんだけど、前座でよければ何とか一緒にできるようにしてあげられると思うんだけど、やる?」
 わたしは青ざめた。嬉しいにはうれしい。前座でもまったくOKだ。南こうせつの前座も、拓郎の前座もやった。嬬恋の野外コンサートも、阿蘇山のコンサートも参加した、観客がどれだけいても大丈夫だ。しかしだ、マイケル・フランクスの前座はまったく自信がなかった。だってほとんど唯一、その時点で自身が認める音楽でありアーチストだったから、自分をそれと比べるとまるで天と地ほどの隔たりがあるような気がしたのだ。
 バックバンドだっておそらく「クルセダース」を引きつれて来るに違いない、それに対抗するには全ての楽器で日本一のスタジオミュージシャンを集めても無理だ。
 なぜだか全てのことを、マイナスに考えてしまったのだ。回りのディレクターやマネージャーはやらせたいようだったが、本人が嫌なんじゃあしょうがない。
 そして結局その話は流れてしまい、苦いタラレバの記憶になった。

 武道館で行われたマイケル・フランクスの本番は、期待したものとはだいぶ違っていた。バックはクルセダーズではなくピアノとアコースティックベースとギターとパーカッションといった実にシンプルなジャズカルテットを基本にしたもので、本人も調子が悪いらしく音を外したりしていた。
「ちぇっ! やればよかった!」なんて、そんな不遜なことは思わなかったけれど、どうしてあんなに自信が持てなかったのかは後になっても解らなかった。
 もしかすると、あんまり簡単にプロになってしまい、ビッグな人とも仕事ができ、夢かなってしまったので、最後の目標としてマイケル・フランクスをとって置きたかったのかも知れない……と今は想像するが考えすぎだろうなあ。
 
 太田裕美さんに書いた詞と同じになったが、まあ善しとしよう。
 いずれにしても「やればよかった後悔と、やら
なきゃよかった後悔」で、この「過去ログ」はできている訳だからなあ。