06年3月28日(火)「 口先ジジイと鼻先ババア 」
「罰が当たるぞ」と83歳のおふくろに脅されて、せっかくの10日ぶりの休みだったが墓参りに行く。そう言えばお彼岸にも行っていなかった。罰ぐらい当たっても別にどうってことはないが「もう私もそう長くはないからな、あと何回桜が見れるかわからん。毎年見収めのつもりで花見をしとかんとな」などと“来い来い演技”なのはわかっているが気持ちを思うと「おれは釣りに行く予定じゃから!」とはちょっと言えなくなってしっまたのだ。
パソコンもインターネットも興味が失せたらしく、ノートパソコンには刺繍入りの白い布などを被せてある。しかしデジカメだけはなんとか日常の中に定着したようで、自分が咲かせた庭の花々を折りあるごとに写真に収め、わたしが訪ねた折りに見せるというのが結構大きな楽しみになっているらしい。
「上手に撮れちょるねえ、構図がよかねえ、ちゃんと学校で勉強した人の作品のごとある、もう少し若かったらプロになれたかも知れん、天賦の才能なんじゃろうねえ、若い頃から絵を描いたり書道をやったりチギリ絵やったりしちょったからセンスが良か」
わたしは思いつく限りの世辞を言った。年寄りに世辞を言うのはたとえ嘘でも罪にはならない。「あららバアちゃん、若い頃は随分男ん衆を泣かせたんじゃろうなあ」などという台詞は田舎旅では定番である。腰の曲がったバアちゃんはほとんどイチコロ、その後はベラベラしゃべり出す。一度お試しあれ。
しかしながらオフクロはさすがにわたしを知り尽くしているらしく、目を細め視線を横に流して「あんたは相変わらず“口先ジジイ”じゃなあ、金でも借りにきたとな?」と言った。
千葉の「昭和の森記念公園」の桜はまだ三分咲きだった。あと1週間後なら満開だっただろうがしかたがない。開きかけた蕾というのもまあオツなものであろう。丘陵地でさらに風があるせいか多少寒いが、予報の「雨・大荒れ」が少し足踏みしてくれているだけでもラッキーというものだ。チラシ寿司やエビフライ他のお花見メニューを持ち込んで宴を張る。
「もうちょっと咲いてると良かったとになあ」
わたしの声におふくろは反応しなかった。ちょっと声が小さかったのだ。彼女は80歳を越えてから急に耳がだめになってしまった。夫の死や自身の肺癌など辛いことが重なったので、聞きたくないことは聞こえなくなる“都合のいい精神的な難聴”かと初めは想像したがそうではなかったらしい。かなりの大声を出さないと聞こえない。回りの人間は大声を出すので腹が減って健康的だが、本人にとっては社会生活そのものの危機だ。今は絵手紙の教室に通っているのだが、耳がダメなのをみんな知っていて先生もお友達もあまり話しかけてくれないのだそうである。わたしは少し辛い気分になった。
30万円だか40万円だか知らんけどもっといい補聴器を作ろうよ、と何度となく言うのだが、もう長くないのでもったいないと言う。
「残り少ない人生だからこそ、大切に生きるためにいい耳(補聴器)が要るんじゃなかと? さっきのお墓でもウグイスが何度も鳴いちょったのに……」
おふくろは少し心を動かしたように見えた。“ウグイスの声”というのに反応したのだ。もう一度聞かせてやりたいものである。
風はやや冷たいがまぎれもなく春だ。景色の全体が暖色系である。見渡すと1本だけ満開らしい桜の木があったが遠すぎるのでその下まで行くのはやめてしまった。
「耳は聞こえんけど鼻は人一倍よかよ。こうして目をつぶればな頭の上には桜が咲いちょることもわかるし、後ろには菜の花があるのも匂いでわかる。このチラシ寿司がいい酢を使っちょらんのもわかるし、あんたの“止めたはずのタバコ”の匂いもわかる」
わたしは一瞬ドキッとし、話題を逸らすべくドモリながら言った。
「お・おれは口先ジジイじゃが、あ・あんたは鼻先ババアじゃなあ」
フワリと彼女の顔に笑みが浮かんだが、実際には何も聞こえてはいない。
mk