2014年11月09日(日)「 いけない考えバイブル 」
60歳になって早や11ヶ月、もうすぐ63歳だ。…んな訳はない。
が、時間のスピードが3倍ぐらいになった気がするのは確かで、もう後が無いのをますます実感させられる今日この頃なのである。
まるで犬の年齢計算のようだ。犬は1歳を過ぎると、以降毎年7歳加算されるらしい。もっともこれ、人間の年齢に換算すればってことだけどネ。ちなみにわたしが犬だったら、まだ8歳とちょっとだ。毛も生えていない。ブハハ、意味が分からない。
もとい!
“後が無いという焦り”はやはり有るのだが、反して“もうすぐ次の世界に旅立てるんだなあ”という期待感もある。リセット願望というやつかもしれない。
たとえ青虫に生まれ変わろうとも、来世こそ桑田佳祐さんみたいに真面目に生きて紫綬褒章をもらいたいものだ。ブハ、これも我ながら意味がわからない。
が、同時にこんなことも考えるのだ。
「現世での人生もいよいよまとめの段階だ。悔いを残さぬよう、できるかぎり人間として成長してみたいものだ」と。
う〜む、なんて殊勝なジジイであることか!
「倫博(みちひろ)」の「倫」は「人の踏み行うべき道」という意味だそうだ。倫理社会の倫だから緊張する。が、不倫の倫でもある。比叡山の僧侶だった大祖父に一字もらったのだそうだ。
ま、それは嘘だが「人の踏み行うべき道」というのは、腹の中に必ずやある欲望や感情、いわゆる煩悩をというやつを押さえ込んで、世のため他人のため、世界の平和のために自らは微笑んでみせる術、とも言えるのではないだろうか。
しかしだ、わたしにはそれこそが欺瞞に思えるのである。聖人君子になることが成長ではない気がするのだ。うまく言えないがむしろ真実はその逆ではないかという気さえする。しかし難しすぎて分からない。わからないまま眠れない夜が幾日も続いた。
まあ、それも嘘だが、先日腹がペチャンコの金魚を見ていてふいに閃いたのである。
“隠す・押さえる”ではなく“腹の中に何ひとつ持たない”ことだろう、と。そう、腹の中のものを全て掻き出して(書き出して)しまえばいい訳なのだ。
「いけない考えバイブル」は、わたしの腹の中に未だしぶとく存在する未熟な思考の残滓を書き出し・記録したものだ。これから先も書き続けながら折に触れ読み返し、反省し、そしてそれらの考えを全て抹消する努力をするのである。
わたし自身の、わたし自身による、わたし自身のためのバイブルなのである。リンカーンがヘソで茶を沸かす、倫サーンなのだ。
『いけない考えバイブル』
●第一章「差別と偏見」
〇第一条「中国」について
小笠原の海に、赤珊瑚目当てに中国の船団が集まっていると聞いて、腹が立って腹が立って仕方がない。全隻撃沈してやればいいのだ。そもそも領海内にズカズカと入って来ること自体がまったくもって理解できない。こんな蛮行が現代にあっていいのか、海賊行為であろう?
これがもし立場が逆だとしたら、中国は確実に銃撃砲火をあびせてくるだろう。なんせ領海侵犯だから正当性を振り回せるのだし、国際問題となって各国から多くの批判も受けるだろうが、中国は今や膨大な金と力を持ってしまった。怖いもの無しなのだ。やりたい放題である。さらに共産主義国家になって以来、差別されることにはまったく慣れているから、今更何を言われようと構わないのであろう。
ふと連想してしまったが、中国という国は、相手が手を出してくるのをニヤニヤしながら待っているヤクザもんみたいな奴である。中国はそういう国なのである。
分かっているはずなのに、日本政府は何をしているのだろうか? お坊ちゃんたちの集まりだから、アメリカという名のお父さんがなんとかしてくれるとでも思っているのだろうか? 二世議員はずっとそうして生きてきたのだろうか、だからダメなのだろうか。
台風20号(神風)が引っ掻き回してくれればいいのにと期待した人々を、わたしは少なからず一億人知っている。だから、もうこうなるとこれは国民の総意であろう。筋道を通して国際問題化して抗議するとか、経済制裁なんかではもう全然だめなのだ。即日、宣戦布告すべきなのである。力には力なのだ。
何も仕掛けてこれないだろうと日本を見くびっている相手に、案の定何も仕掛けないから舐められっぱなしだ。本当に中国相手にそんなことで解決の糸口が見つかると思っているのだろうか? ケンカもしたことが無い、血の気がまったく欠乏したオメデタイ政治家ばかりである。
個人的なレベルで考えてみてもすぐに分ることだ。「ねっからの悪人というものはいないものだ。何かのきっかけでホロリと情が通うものさ」という坊ちゃん考えは甘い。
世の中には、もうもうどうしようもなく悪い奴というのがいるのである。中国はそういう国なのだ。日本に虐げられた過去の歴史がそうさせるのだから、と同情したが最後、そこをドスで突いてくる輩なのである。禁じ手をどんどん出してくる、またはケガの場所にわざと蹴りを入れてくる格闘技の選手みたいなものだ。今の中国に人道や情はないのである。特に対日的には顕著だ。日本を潰すためだけに革命以来70数年も頑張ってきたのだ。そういう奴こそ返り討ちの目にあわせてやりたい。
わたしにだってもちろん中国人の友達がいるし、事実、いいやつが多いのだ。日本にいる中国人はまた少し違うのである。が、彼等自身が一方で認めるように、国としての中国はどうしようもなくわがままな国なのである。少し恥ずかしいとも語る。「やられたら、やりかえす事しか考えない国」なのだそうである。
東京都が尖閣諸島を買い取る云々の時、不可能を予測しながら皆痛快な気分になったと思う。そして今回も「もし戦艦を一隻持っていたら、かたっぱしから撃沈してやるぜ」と思ったのは、おそらくわたしだけではないだろう。
中国政府は知らぬ存ぜぬと言っているようだが、中国の漁民が全員戦闘訓練を受けているその理由はなんなのだ? 何かのたくらみが有ってやって来た、もしくは送り込まれたと疑われて当然だろう。すれば、彼らを葬っても文句は無いはずである。または海賊とみなして、こちらも海賊となって戦えばいいではないか。政府、及び国家間では相変わらずの騙しあいをしていればいい。そんなことにはもう興味はないのだ。アナーキスト、民間レベルでの宣戦布告をすればいいのである。
何度も言っているが、わたしの母方の姓は「鮫島」である。鹿児島から沖縄までの間の南海で、暴れまわっていた海賊であっただろうと言われている。血が騒いで悔しくて悔しくて堪らない。
言っちゃあ悪いが言っちゃうが、はっきり言って中国が大嫌いだ。旅行目的でも中国人には日本に来て欲しくない。ウハウハ言っている日本の観光業界もおかしい。儲けになれば何でもいいのか? 腹の中で相手も自分も卑下しながら、ついつい銭に手が出てしまうなんて、最悪最低の資本主義の滓(おり)である。
昼間の山手線に乗ってみると、中国人旅行者がたくさん乗っている。裕福な階層の中国人だから、持ち物も衣服も贅沢だ。退役軍人の天下り的会社経営者が多いというのも、それはそれでビックリだが、今ここで中国の矛盾をとやかく言うつもりではないのだ。ただその子息たち、令嬢どもの着飾りぶりに腹が立つ。これはヒガミじゃないぞ。年齢的に不相応な贅沢というものが、あまりにも不愉快であることに我ながらビックリしたのだ。嫌〜な感じ、というのはこういうのをいうのだろうか。
負けると分っているから、日本は何も仕掛けないのだろう。だからそう遠くない日に必ずや尖閣諸島を手放すことになるだろう。一体全体日本は、何をされれば本気で戦う気になるのだろうか? それとも遂に最後まで戦うことなく、国家自体をつぶされるか乗っ取られるのだろうか。つまりは、日本は憲法9条と共倒れするのである。
習近平との会談時「なめんなよ」と一言叫んで、安部首相が習をボコッと殴ったりしたら、もうもう国民の支持率は100%になると分っていただろうに、なぜに阿部さんはやらなかったのだろうか。どうせこのままで行けば年末解散は必須だろうから、票稼ぎのためにも是非やって欲しかったのだが。お坊ちゃまはまったく駄目だ。
もうわたしも先も短いし、やりたいことも別に無いし、戦闘訓練を受けさせてくれるなら秘密部隊を志願してもいい。やるべきこと、やりたいことをトットとやってしまって鎖国しちまおう。アメリカについても、もういいだろうよ。いつかアメリカから「米中戦争に日本も早く参戦しろ」と言われる日が必ずやってくる。そうなる前に先手を打つ方が一国の態度としてアリじゃないだろうか?
日米中の関係が、わたしが10年前から言っていた通りになってしまった。もうすぐ(2年以内に)、公害で数千人単位で死んだり、生産物が汚染のために処分せざるを得なかったり、と環境問題で中国はややつまづくだろう。叩くならその時だ。
〇第二条「ダッコちゃん」について
差別と偏見のどこが悪いのか分らない。というよりも「それのどこが差別なの? それって偏見なの?」と疑問を抱くものが多いのだ。
きっかけは「ダッコチャン」だった。
1960年の発売だそうだから、もう50年以上も前の話だ。空気を入れて膨らますソフトビニール製の人形(?)で、黒人の赤ん坊を模した形をしていた。おぼえていらっしゃるだろうか。鹿児島のド田舎に住んでいたわたしも実物を見た記憶があるから、都市部ではそりゃあもう大変なブームだったのだろう。手足が輪っか状になっていたから、例えば柱に抱きつかせてインテリアにしたり、腕に巻き付けてアクセサリーにした。らしい。
何かの本で、銀座辺りを歩いている人々がみんな腕にダッコチャンを付けて笑っている写真を見た記憶があるが、東京への憧れがもしかするとそんなところから生まれたのかも知れない。
あ、そんな事はどうでもいいのだった。そのダッコチャンだが、あんだけ流行っていたのに、いくら50数年経ったとは言うものの、何故に今まったく見ないのだ! とわたしは不思議に思っていた訳なのだ。鑑定団にも出てこないしなあ。
で先日、てな話を仲間内でしていて、相手に逆にびっくりされてしまったのだ。
「え! 小林さんは知らなかったんですかい? だっこチャンは黒人に対する差別だってことで昭和の終わり頃に回収されてぜ〜んぶ焼き払われたんですぜ。って言うかですね、なんかヤバイ団体が関わっていたらしくて、表向きは“黒人差別を無くす会”のような事を言ってるんですが、実体は過激なレイシズム(人種差別主義)団体で、要するに社会から黒人(的なもの。つまり人形とかマークとかまで全て)を消してしまおうって考えな訳ですよ。三角の頭巾をかぶって、アメリカのKKKに似た格好をしていたりもする。今もその団体はあるらしいから、ブログとかにはだっこチャンのことは書かないほうがいいですぜ、何されるかわかりませんぜ、放火とかさあ」などと言うのである。
「ちび黒サンボ」も「カルピスのマーク」も結局その団体の圧力に屈したらしいのだ。
南アフリカのマンデラ氏のように、本当にアパルトヘイトと戦った行動は当然尊敬されるものだろうが、中途半端に「人種差別はいけませんよー」って流行語のように言っていた日本だから、逆にレイシズム団体などに利用されてしまうのである。 ダッコちゃんの製造元のタカラ玩具などは「あれは黒人ではなくて陽に焼けた日本の少年です」と言い訳して製造を続けようと試みたらしいが、笑えるよなあ。
「黒人の子供だが何が悪い! かわいいからいいじゃないか。何故に黒人の人形を可愛がることが奴隷制度を連想させることになるのか、そっちこそちゃんと説明しろ」と、どうして反論できなかったのか理由が知りたい。黒という色はもっとも強い色で好きだ。アフリカはもっとも憧れの地だ。アメリカの黒人音楽にいたっては、差別どころか神とあがめている。
「じゃあ世界中の民族的人形を抹殺しろよな」とその団体に言えば良かったのだ。
それにだよ、極論かも知れないが白黒黄色、ゆず、抹茶、人種なんてみんな腹の底では基本的に差別しあっているものなんじゃないのかあ? 差別しあったって、別にどうってことないんじゃないのか? それが民族というものだろうよ。
それでも全世界の人種差別を無くしたいというのなら、もうわざと世界中の人種の血を政治的力で混ぜてしまえばいいのだ。日本の少子化対策なんて“移民”を認めるしか無いことはもうみ〜んな知ってることなのに、血が混じることが嫌なんだなあ。つまりは政治家どもが最も人種差別をしてるわけだよなあ。
すべての色を混ぜると何色になるか知ってますか? その日、世界は灰色のだっこチャンで埋め尽くされるのである。見てみたいものだ。
〇第三章「インド人の黒ん坊」について
これも「それって人種差別ですぜ、書いたりしゃべったりしない方がいいですぜ」といわれて、この温厚なわたしが逆切れした話。
「ダルマさんが転んだ」という遊びはみなさんご存知かと思うが、50年ほど前の鹿児島ではそれを「インド人の黒ん坊」と言っていたのである。遊び方もメロディも「ダルマさん…」と同じだ。それをどこかのラジオでしゃべったわけだ。そこにピーが入った。
「だから〜、わたしが興味があったのは何故に東京ではダルマなのに鹿児島でインド人になったのかという一点だけなのさ」と説明したのだが、まあ頭の固い放送業界の方々は触らぬ神にタタリ無しなのである。
50年前といえば、今思えばやっぱりすごくアナクロであった。わたしの母は良識ある人間だったが、やはり中国人や朝鮮人やエタ・非民の話をするときは少し嬉しそうだった。が、それは日本人の優秀さを子供に伝えて自信をつけさせたいだけの例えだっただろうし、日本人同士の中でも先祖に罪人がいるというだけのことで差別される社会の仕組みを憎みなさい、と説明する道具だったのだろうと思う。
しりとり数え歌などもかなり差別的というか、おかしなものがあった。ロシア戦争の頃に出来てずっと引き継がれてきたのだろうか。出だしを忘れてしまったがこうだ。
「…すずめ…メジロ…ロシヤ…野蛮国…クロパトキン…金の玉…負けて逃げるはチャンチャン坊(?)…棒で叩くは犬殺し…シベリア鉄道長けれど…」
う〜む、興味は尽きない。ここ何日か全てを思い出そうとしているのだが無理だ。もう少し長かった気がするのだが。
知り合いに香川県出身の人がいるのだが香川でも「インドの黒ん坊人」だったそうだ。な? 実に興味深いだろう? もう人種差別なんかどうだっていいのだ。インド人は確かに黒いもんなあ。黒かろうが金色だろうが、そういうことは全く問題外なのだ。馬鹿にしてる訳でもないと思うよ。「アメリカ人の白チンチン」でも「ロシアの赤陰毛」でも「毛沢東の毛髪10」でも何でもいいのだ。
そしてこういうのは差別じゃなくて「歴史」なのであるよ。遊びの日本史なのだ。
南の方から広まったと想像がつくから、何県まで「インド人が黒い」のか調べなくてはならないでしょ。大阪辺りからインド人が白くなるとネタ的には笑えるが、それはちょっと差別的かもしれない。
〇第四章「小人の国」について
「小人の国っていうテーマパークをつくると面白いなあ。130Cmぐらいの人を集めてさ。ママもぎりぎり就職できるかもしれん」 と何気なく妻に言うと、そういうことは言わないほうが身のためよと睨まれた。
妻が149Cmしか無く、結構気にしているのを忘れた失言であったから、すぐに言い訳をした。
「小人を差別したわけじゃないんだ。大き過ぎるのも変だからさ、じゃあ隣には“巨人の国”ってのも作ればいい」
運転中だというのに、助手席から妻のパンチが飛んできた。
「危ねえだろ、俺もそうだが、チビはしょせんチビだし、デカはどう頑張ってもデカだ。チビの刑事もいるだろうし、500Kgのチビもいる」
困った時は、笑える洒落を考えて、とにかく誤魔化せばいいのだ。そうだそうだ他人をうっかり差別してしまった時は、誤魔化せばいいだけの話だ。差別なんて所詮その程度のものなのだ。ハハハハハハハハハー。
以上のような考え方をしてはいけない。肝に銘じるべし。