2014年01月08日(水)「 ふるさとのうみ 」
トカレフにはまだ弾が一発残っていた。
「7発で3人……4割2分8厘……野球ならヒーローだ」
竜二は笑った。
「戦争になるわ」
47階の窓から直下の運河を見下ろし、粧子はいくらか物憂げに言った。
「米中両方が相手だ、実質的な戦争はすぐに終わる。問題はその後の日本政府だ」
「もう一度、鎖国なんてのもいいかもしれないわ」
振り向いた粧子は、竜二の引きちぎられた右耳のまだ血のにじむ傷を凝視してため息をついた。
「ここにいればもう少し生きられるわ。ここは法に守られた死角」
「すまない、明日立つ」
「その指でトリガーを引けるの? 残りは一発だけ」
「22口径のアナクロな銃だが口にくわえれば打率は10割……野球なら殿堂入りだ」
「どこの海で?」
「海? かなわないなあ、お嬢さんには……生まれは辺野古だ」
「竜二、辺野古にもう海はないわ、わすれたの?」
クーッ! ここで目が覚めてしまったのである。
昨年末(27日)に沖縄県知事が「埋立て申請の承認」などというクソッタレ発表をしたものだから、わたしは夢の中にまでその衝撃を引きずってきてしまったのだった。
目がさめてしまったので竜二と粧子の関係もわからないし、いったい誰と誰と誰を3人殺れば米中と日本が全面戦争になるのか、といった肝心なことももう謎である。短編ぐらいにはなりそうなストーリーだったし、これから濡れ場があったかもしれないというのに、どうしてくれるのだ。
辺野古問題の報道が刺激になったらしく、49年前の遠い記憶が蘇ってきた。子供ながらに非常に大きな喪失感を味わったことを覚えている。11歳の時にわたしは「ふるさとのうみ」を失くした。
当時わたしたち家族が住んでいたのは鹿児島県揖宿郡喜入(きいれ)町中名(なかみょう)という場所だった。「村」という名称はついていなかったが、人口3000人ぐらいのまさしく村であった。母の部屋を家捜ししたら当時の写真が出てきたので記憶はさらに鮮明になった。屈折した目つきの少年がわたしである。(※この写真は9歳時のもののようだ)
わたしは田舎者のくせにマセガキだった。いつのまにマセたのか自分でもわからない。先天性のマセモノなのかもしれないが、まあそんなことはどうでもいい。とにかく大人たちの話に異常に興味があって、何でもいいからもう話を聞きたくて聞きたくてしかたがないのだ。誰よりも早く、詳しく、本当のことを知りたかった。知ってどうなるわけでもなかったが「子供は何も知らなくていい!」という一方的かつ封建的な大人の理屈にはぜったい納得がいかなかったのだ。まして「海が、海岸が、砂浜が無くなるらしいゾ」というそのウワサは「俺たちにとっても超一大事件なんだよ!」と叫びたい気持ちなのだった。
父が小学校の教員だったせいで、同僚や村人がほとんど毎晩自宅に飲みに来た。当時の鹿児島には、男たちが焼酎の一升瓶をかかえて夜な夜な近隣の知人宅を飲み歩く風習があったようだ。弁当を持ってこれない貧しい家の子供たちに昼飯時に蒸かし芋を配ったり、日曜日に自宅で無料ソロバン塾をやったりしていたことへの村人たちの謝意だったのかも知れない。
父は村の人々に好かれていた。そして深夜の来客でも拒まない人だった。母は陰で泣いていたこともあったようだが、わたしはオトッツァンたちのけたたましい飲み会が嫌いではなかった。だって面白話が向こうから飛び込んでくるのだ。ラジオよりもテレビより興奮するのだ。知っている人の名がどんどん出てくる。スケベー話もどんどんど〜んと来るもんねー。
その「海が無くなる」ということに関するウワサの内容を要約すると次のようなものだった。実際は鹿児島弁で語られたのだがそのまま書くとおそらく読むのも理解するのも不可能だろうから、あえて標準語に訳して書く。こういうのもバイリンガルと言ってほしいものだ。
「新次郎(町長)が浜の近辺の土地を最近かたっぱしから買いあさっているらしいぞ。漏れ聞くところによると、近い将来に遠浅のこの辺りの海を全部埋立てて東洋一の石油備蓄基地を作る話があるらしい。日本石油という会社だ。県を上げて盛んに誘致した結果らしい。まあそうなれば工事などで俺たちの仕事は増えるし、村は潤って税金もかなり安くなるらしいし、道路も役場も学校もぜーんぶ立派になるだろうからまあいい話ではあるらしいのだが、新次郎ひとりだけがそのことを先に知ってて、買いあさって手に入れた土地をこれから先に上手くさばいて自分だけ大儲けをたくらんでいるのがちょっと気にくわない。あの辺は塩害があるから畑にも向かないし、みんな金が無いからいいようにだまされて二束三文で買い取られてしまったようだ。新次郎は上昇指向の極端に強い男なので、金さえあれば総理大臣にもなれるだろうと吹聴しているそうだ。なんとか懲らしめないといかんだろう。こうこうしかじかと訴え出ることはできんものか。小林先生、知恵を貸してくだせえ。海はまあ他にいくらでもあるからどんどん埋めてもいいし、漁師の連中には金がでるらしい。そのへんは心配要らんのだが、とにかく新次郎だけの1人勝ちというのは許してはいけないだろうよ、あのゴロツキ野郎め!」
回りの男たちは酔って狂気を帯びた大声でしきりに「じゃっど、じゃっど」と興奮していた。鹿児島弁で「そうだ、そうだ」の意味である。そして隣室の布団の中でわたしも「じゃっど、じゃっど」とうなづき、町長とブルドーザーをダイナマイトで吹き飛ばすことばかり考えていた。金網さえ破れれば、裏山の金山の古い坑道の奥にダイナマイトが隠してあるのをわたしは知っていた。
それにしてもだ、昭和40年頃の人々は「海は他にいくらでもある」「どんどん埋めていい」と考えていたのだねえ。
新次郎町長というのは、わたしの同級生の川原君の父親であり、当然面識もあった。大柄で眼光するどく拳がゴツゴツしていた記憶がある。町議選ですら何度も落選するような低迷期が長くあり、そのころは飲んだくれて西鹿児島駅でくだを巻き、通行人にからんでケンカを売り、奇声をあげて暴れていたものだ。そういった光景をわたし自身も何回か見たことがある。まあ母に言わせればゴロツキ(懐かしい言葉だねえ)で、友達の父親だから悪くはいいたくなかったが、まあそういう手合いだった。
誹謗中傷ではない。歴史である。
上記のサイトでは町に絶大な経済効果をもたらした功労者として扱われている。当然だ。見方を変えれば白と黒が逆転するのは世の常なのだ。立身出世物語として光を当てるならば、その後県議会議員を経て国会議員までトントントンと上り詰めて行ったのだから、面白い人生ストーリーではあったのかもしれないなあ、とは思う。
以上のようなことがあって、というかだからという訳でもないのだが、わたしは「人を数で選ぶシステム」に納得できず選挙権を放棄した。これまで一度も投票というものをしたことが無い。諸意見あろうとは思うが、スカポン男だからお許し願いたい。
昭和42年、喜入基地の埋立て工事は着工した。川原新次郎の汚れた金はあばかれることもなく、ウワサの真相は永遠にあきらかにされなかったが「おれの海」が無くなってしまったことだけが、悲しいかな確固たる事実だ。
海の代替にと、近隣の各小中学校は立派なプールを日石から作ってもらったのだが、わたしは一度も泳がなかった。
民意が低かった、というかそれ自体が無かったのかもしれないなあ。海岸が、自然が無くなることへの地元民の反対運動なんてまったく記憶にないのだ。日本一貧しい県に突然降ってきた大きな儲け話のようなものだったのだろう。「貧しさ日本一からの脱出」はその当時の鹿児島人の悲願だったのかもしれない。為政者たちを責めることはできないが「とりかえしのつかない事」ってやっぱりあるのだ、とわたしは思う。
素晴らしい道路、素晴らしい町役場、素晴らしい多目的ホール、素晴らしい校舎、素晴らしいキャンプ場、素晴らしい石油タンク、素晴らしい石油基地の町。
無数にあった宝貝や白蝶貝の貝殻は、今ではそれらの下に眠っている。
あと20日で還暦だ。そろそろ自決すべき海を探しておかねばならない。
あ! わたしは竜二ではないのだった。ほんとバカだなあ。トカレフも持ってないし粧子も居ないや。
mk