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それは、たった一枚の写真から始まったストーリー。 SFのようでもあり、モキュメンタリーのようでもあり、はたまたただの馬鹿話のようでもある。どっちにしてもほとんど意味は無い。 「他に考えなきゃいけないことがいっぱいあるだろ!」などと無粋なことを言ってはいけないのだよ。 |
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「 左の女 」 2015.02.10
始発だというのに“着ぶくれ”のせいもあってか、電車はほぼ100%の乗車率になっていた。人いきれと外気との温度差のせいで車窓は真っ白に曇り、ぼんやりとした光の濃淡だけが左から右へ猛スピードで流れていた。 乗客は座っている者もそうでない者も皆首を縮めてうつむき、眠るかもしくはスマホをいじっているかのどちらかのように見えた。 そんな中、わたしの左隣に立っている女だけは見えもしない白い窓をじっと見つめて、時々かすかなため息をついてみせたりするのだった。つり革の持ち方や小首のかしげ方など、何かにつけて演技がかった動作が少し鼻についたが、白檀と柑橘系を合わせたような淡い不思議な香りは、そう悪いものではなかった。 “見ぬが華”ということは今までの経験から十分にわかってはいたのだが、これも性(さが)というものなのだろう、車内吊りを眺めるふりでわたしは女の横顔をチラと見た。 「おッ?」とわたしは思った。まれに見る綺麗なシルエットだったのだ。しかし信用するのはまだ早計なのだ。当たり前だが顔は立体なのである。角度を変えて確かめなければ信用できない。いったい何を信用するのか自分でも分からなかったが、わたしの胸は期待で大きく膨らむのだった。 「顔の幅さえ常識内(?)なら、おそらく相当な美人であろう」という確信を、わたしは5回目のチラ見で得ていた。 頬から顎にかけての柔和なアールと、比率抜群の上品な目鼻立ちはいかにも育ちがよさそうだった。アナクロだなあと苦笑しつつも、わたしは「上流階級」という言葉を連想した程だ。 しかしながら、7回目のチラ見をした時、わたしは気づいてしまったのだった。ファンデーションの下に隠れてはいたが、唇の右脇に3cmほどの刃物でえぐったような深い傷跡があったのである。わたしの視線はそこで止まり、そしてそこを中心に心が大きく円を描いた。 彼女のまだそう長くはないであろうこれまでの人生を妄想し、思わず涙が溢れた。厚く曇った彼女の心の窓をほんの少しだけでも拭いてあげられたら、とわたしは真剣に思ったのだった。 「話しかけてもいいかしら? オジサマ」 彼女は突然わたしの方を向いて言った。わたしは夢心地だった。顔の幅は普通だった。当然“相当な美人”である。23〜24歳だろうか。わたしの半分以下だ。 「お知り合いでしたか?」 なんという品の良さだ。 「あ、すみません。わたしの知り合いに似ておられたもので。何度も見てしまって……」 わたしは小さな嘘をついた。そして彼女はその嘘に気づいているようだった。 「あ、いいのです。目立つ傷ですものね。一昨年、事故で…自転車のハンドルが口から入って貫通したのです」 わたしはショックのあまりガクンと膝を折った。そして目が覚めてしまった。どうやら15秒ほど眠ってしまっていたようだった。 朦朧とした頭でわたしはまた左の女を見てしまった。相変わらず白い窓をジッと見つめていた。 わたしはふいに外を見たくなった。2日間降り続いた冷たい冬の雨が、予報では今日の午前中には上がるらしい。たしかに微かだがモノトーンの車窓に色味が増してきたような気がしないでもなかった。もしかすると、彼女も同じように考えているのかも知れない。あれは正夢だったのではないか。結露の粒が次第に大きくなり、そして一筋の視界が開けることを望んでいるのかも知れない。いや、きっとそうだ。今わたしが彼女の為にしてあげられること、それはなんだ? なんなのだ? 一度そんな風に思い始めると、もう収集がつかなくなってしまう性格なのである。わたしの頭の中は「外を見たい、太陽を拝みたい、彼女にも明るい空を見せてあげたい」というその1点に絞り込まれて行ったのだった。 迂闊と言えば確かに迂闊であった。生まれて58年間隠し通してきたDNAの秘密を、その瞬間忘れてしまっていたのだ。 わたしは無意識のまま、舌をビュンと伸ばしてその曇った窓を扇形に舐めてしまったのである。舌をフルに伸ばしきったのと、その時電車がグラリと揺れたのとで多少いびつな扇形になってしまったが、そこから雨上がりの水色の空が実に清々しく鮮明に覗いていたのだった。 気が付くと、左の女がしゃがみ込んでいた。床を見つめて何事か考えているようだった。たった今、目にも止まらぬ速さで飛んだ直径5cm、長さ60cmの肉塊は一体全体何なのであったのか、女は深く考えているようだった。そして5秒後、腰をくの字に折り曲げたまま立ち上がり、荷物棚のピンクのコーチをむしり取って「カメ…カメ…カメ…」とおののき叫びながら10mほど後ずさって離れて行ったのだった。 「気持ちワリーんだよー、あのカメ…カメ…カメ…、何だっけ? アワ、ワ、ワッーーーーー、カメ…!」 育ちの良さそうな顎のアールはどこかに吹っ飛び、目はつり上がり、そして鼻の穴は直径2cmほどに拡がっていた。恐怖のあまり顔幅も広がってしまったのだろうか、10m先の上流階級の女は横向きの冬瓜顔になっていたのだった。 さらに女はわたしを指さし「気持ちわりっ、気持ちわりっ、気持ワリーヨーッあいつ、舌がベッチョベチョなんだよーあいつ!」と誰彼とはなしにすがりつくように声をかけているのだった。おそらく、ついさっき目の前で起きたことを説明しようとしていたのだろう。しかし悲しいかな、その絶叫には誰も耳を貸す者はいないようだった。あざけ笑い、哀れがり、かかわりたくないといった感情をあからさまに示して、そして皆また眠りとスマホに戻って行ったのだった。 わたしが言うのも何だが、現代社会の人間関係を象徴するような出来事ではないだろうか。 ただ、その女だけはいつまでもいつまでも、じっとわたしを三角の目でまばたきもせず見張っていた。 わたしは窓に付いた透明な扇形を見つめた。そして、あと4回舌を飛ばせば扇形が繋がって円になるなあ、などと考えていた。うまくやれば桜の花のようにもできるかもしれない、とも考えていた。車中も落ち着きを取戻し、吊し上げをくう心配もなくなったとなれば、わたしは本来結構お茶目な性格なのだ。 10分ほどで「次は津田沼」のアナウンスが入った。残念だが、わたしはもう降りなければならない。仲間と爬虫類協会の用事で会う約束なのだ。 わたしは10m先の女をチラと見てから、笑いながらベロ〜ン、ベロ〜ン、ベロ〜ン、ベロンチョーと4連続舐めを見せてやった。女はわたしを指差して絶叫していた。からかい甲斐のある、実に分かり易い性格の女だ、と思った。白い窓に透明な桜が美しく咲いていた。春はもうすぐだ。 予定外だったのは電車を降りる時のことだ。人間が頭から倒れる時の独特のドスンという音がしたのだ。どうやら、右の女も気絶したらしかった。 |
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