「 牛骨 」 

 美大浪人をしている頃はとにかく金がなかった。生活費として仕送りをしてもらってはいたが、絵も描かなきゃならない。絵を描くには画材が要るし、画材は今のように量販店があるわけではなかったので結構高く、それこそ絵の具はペンチで絞って最後の一滴(と言うのかな?)まで使い、その後チューブを切開して残った絵の具の微量のカスをテレピン油で溶かしてまで使ったりした。貧乏自慢のようになってしまったが、そんな状態でも伊東ゆかりさんのレコードなどはニューシングルが出る度にもらさず買っていたのだから、まあそこそこに貧乏だった訳である。
 埼玉の川口市に“げいじょう美術研究所”というのがあって、まあ早い話が美術大学受験のための予備校である。オーナーが鹿児島の自動車運転教習所の持ち主で、実の息子が美大受験をするというのでいかにも金持ちらしく「エイヤッ!」の掛け声ひとつで作ってしまった研究所とのことだった。
 所長の永松操先生(光風会)は、結果的にではあるけれど8年浪人して東京芸大油絵科に入った伝説の男で、わたしの出身高校の第1期生でもあり、そういった縁でわたしはそこにいたわけである。
 当然鹿児島の出身者が多く、周辺にはアパートの住人全員が鹿児島出身者なんてところが2、3軒もあり、近隣住民にはいろんな意味でご迷惑をかけたのではないだろうか、と思う。俳優の榎木孝明などもわたしの部屋で寝起きしていたこともある。

 さて「そこそこ貧乏」なわたしたち美大浪人生にとって「自宅に持っているとちょっと自慢できる静物画のモチーフ」というのがあった。それが「牛骨」なのである。砂漠の真ん中に落ちている真っ白な牛の頭蓋骨といえばおわかり頂けるだろうか。(実際に見た人はそうそうはいないだろうが、映画や写真ではありますでしょう?)
「そんなもん個人で持ってなくても研究所にあるだろ」と言われればそれまでだが、青春は魔可不思議なのである、どうしても自分の部屋に「牛の頭蓋骨」を置きたいのであった。壁にかけてシュールレアリズムな絵を描きたいのであった。(人の頭蓋骨を欲しがる奴がいたが、それはまたちょっと違う話)
 ある日、先輩浪人のHさんがコーラとサキイカを持って「いい話、いい話」と言いながらやってきた。Hさんはそれまでにも「選挙のビラ配り」や「布看板張り」の短期アルバイト話を持ってきてくれていたので、今度もまたそんな類の“金になる話”だろう、とわたしはキラリンと思ったのだった。だとすれば憧れの牛骨を買うのも夢ではない。わたしは獲らぬタヌキの皮算用をめぐらせた。
 ところがである、話はちょっと意表をついたものだったのだ。
「あのな、ひょんなことから急に決まった話なんだけどな、研究所の所長が牛骨を2つ欲しいって言うんだよ。で、俺に作れっていうんだなあ。できあがったら1個30000円で買い取ってくれるらしい。でな、いい機会だからついでに俺たちの分も作ろうかと思うんだが、小林も乗るか? この話」
 牛骨を作る? わたしは小踊りした。なんてったって面白そうである。話に乗ったのはわたしを含めて5人、研究所の分の2個を含めて、わたしたちは合計7個の牛骨を作ることになった。“儲けは山分け”というのも魅力的だった。Hさんはさすが“鹿児島の男”だ。欲がない。

 赤羽の屠殺場で牛の生頭を1個2500円で仕入れた。7個で17500円だ。貧乏なわたしにとって2500円は大きかったが、画材屋で完成品の牛骨を買うと40000円ほどもするのだからしかたがない。
 牛の生頭(首は無いから生首ではない)というのは実にグロテスクで皮はほとんど剥いであるが、ところどころにまだ肉と剛毛がついており、さらにまぶたが無いから目玉がむき出しである。映画などでよくある猟奇殺人の死体のようだ。額に直径3Cmほどの穴があるのは“そういう殺され方”をした跡なのであろう。中には2個穴のものもあるところをみると、素人のようなハンマー使いもいるようだった。
 なんとか目玉だけでも外そうと、わたしたちはカッターナイフでグリグリとえぐったりしてみたが、直径8Cmほどもあるその筋肉の球体を結局取り出すことはできなかった。わたしは吐き気・いらだちと戦いながら金勘定のことだけを考えるようにしていた。収入が60000円、支出が17500円、粗利が42500円、5人で分けて一人8500円。8500円、8500円……わたしは生頭についた目玉を強くにらみつけた。牛の目玉はやっとわたしから視線をはずし、少し悲しそうに潤んでうつむいた。
 深さ1.5mの穴を荒川の河川敷に掘って、7個の牛生頭を埋めると作業はほとんど終わったようなものだった。あとは肉片も目玉も脂ヌメリも、もう全〜ん部バクテリア君に任せる事にして、わたしたちは深く深くため息をつき煙草を吸った。藪蚊が10匹ほど足に食らい付いて体を揺すりながら血を吸った。
「さて、場所をもう一度マークして帰るか、次にここに来るのは1年後だな」
 Hさんの台詞にわたしは8500円が一歩スーッと遠退いた気がした。
「エーッ! 1年間も待つんですか?」全員がその場に膝をついた。
 そんなことばかりをしていた訳ではないが、楽しい浪人時代はどんどん時間が経っていった。がんばってはいたのだが、やっぱりというかなんというか現役受験時に引き続き2回目の芸大受験もあっさり失敗に終わった。時間のスピードは毎年加速するようだった。

 途中で何度か夢に出てきた「牛骨」だったが、犬に掘り起こされることも生きかえることも無くやっと1年が過ぎた。わたしは、はたしてあの巨大目玉が本当に朽ち落ちているものなのかどうか実に怪しいなあと思いながら湿った土を掘った。以前に土葬の人骨が真黒なのを見たことがあったので、やっぱり白骨を作るには沖縄辺りの砂浜かサハラ砂漠に埋めなきゃダメだったんじゃないかと考えていたが、埼玉にサハラはなかったし、その場で口にできることでも雰囲気でもなかった。
 スコップを指先のように柔らかく使い、慎重に慎重に掘り進んでいった。傷をつけてしまったら台無しである。1年寝かせた60000円である。利子の付かない定期預金のようなものだ。いや、17500円が60000円に化ける瞬間である、気分はまさに埋蔵金発掘作業だ。
 わたしたちはまるで宝物を扱うように7個の牛骨を掘り出した。それらは案の上、白骨にはなっていなかったが思った程には黒くなく、やや濃い目の茶色だった。脂ヌメリのせいで土の汁をそれほどたくさんは吸っていないようだった。1年の時を経て、例の目玉も何だか得体の知れない脂の固まりのようになっていて、下向きにして棒でつつくとボロリと土の上に落ちた。
「沖縄にはこうして何年かに1回、土葬の骨を海で洗う風習があるらしいな」
 わたしたちはそんな話をしながら荒川の流れで、牛骨を洗った。おまわりが土手の上から見ていた。

「もう少し白くないとモチーフとしての魅力にかけるなあ、なあ、お前たちもそう思うだろう?」
 美術研究所の所長・永松操先生はわたしたちの作った牛骨を眺めまわしながらウシウシと笑った。わたしたちは敏感に察した。先生のOKが出るまでは金は手に入らない、何がなんでも、ペンキを塗ってだまくらかしてでも白くせねば。
 先生はしばらく風雨及び紫外線にさらすといいかも知れないと言い、研究所の屋根に牛骨7個を干すように指示した。屋根に干すと簡単にいうがこれがかなりの重労働である。おまけに普通のモルタル塗り壁の2階建てなのでビルとは違い屋根は斜めになっている。ころげ落ちたり風で動いたりしないように片側からロープで吊りさげるような原理で固定し、なんとか作業を終えて一息つくと、夕日に照らされた7個の牛骨はさらに赤茶色に輝くのであった。
 わたしは毎日、研究所の近くまで来ると屋根を見上げた。7個の牛骨をならべて乗せてあると、研究所はまるでノルウェーのバイキング屋敷か荒野にそそり立つネイティブアメリカン(インディアン)の砦のように見えたが、ご近所の苦情を浴びることもなく静かに時が流れていった。しかし毎日見ているせいかも知れなかったからが、それ以上あまり白くなっているようには見えなかった。

 季節は秋になっていた。牛の生頭を埋めた夏からもうかれこれ1年と3ヶ月経っていた。次の受験で又東京芸大油絵科1本勝負でいくのか、それとも芸大以外にも私立の美大を受験してそろそろ腰を落ち着けた方がいいのか、わたしは悩んでいた。日本の美術界の主流を考えると「東京芸術大学出身者」以外はまったく認めないような所があるので、何年かけてもとにかく芸大に入った方がいいようでもあったが、わたしは「自分の実力・才能というものが分かりかけてきた時期」だったので「もういい、私大が分相応、来年はもう武蔵野美大に入ってしまおう」などと、まったくもって実に不孫なことを考えていたのだった。
 それに早く結婚したい女性がその頃いたので「日本のゴッホはあきらめて美術教師のレオナルド・イッポにでも早くなろう」などと、まあ結構真剣に将来の幸せ計画をしていたのである。
 そのためにも8500円は早期に回収せねばならないものだった。「白くないとモチーフとしての魅力にかける……」とかなんとか言ってナシクズシにするつもりだな、わたしたちは貧乏さゆえに少しさもしい気分になりかけていた。
 その頃(入試の5ヶ月前ぐらい)になると、もう実技試験の追い込みで昼夜問わず研究所に通っていたのだが、ある日の夕方美術研究所の近くまで来ると、えも言われぬ旨そうなラーメンの匂いが辺り一面に漂っていた。
「なんだ、なんだ! 何のイベントだ!」
 わたしは美術研究所の入り口付近で、赤々と火を燃やす1浪組の連中に先輩風を吹かせて話しかけた。コンクリートブロックで作った即席のカマドに巨大なドラム缶をかけて何かをワイルドに炊いていたのだ。
「博多の長浜ラーメンと同じ匂いだな、どうしたんだ?」わたしは受けを狙ってくだらないことを言い、ドラム缶を覗き込んだ。強烈な匂いと湯気の中に尖った棒がかすかに見えた。それは牛の角だった。
「芸大助手の山口先生からの情報で、来年の芸大の静物画の課題モチーフが牛骨らしいってんで、永松所長が急いで牛骨を、今度は白い牛骨を作れってぼくたちに言ってですねえ……」
 後輩たちは気の毒そうにわたしを見た。わたしは後輩たちの顔を見ながら、同時に8500円に羽が生えてどこかへ飛び去っていく妄想をし、屋根を見上げた。わたしたちの茶色い7個の牛骨の右手に宵の明星が輝いていた。羊の頭でもよかったかなあ、わたしは訳のわからないことを思った。
 土に1年も埋めなくても石灰水か何かで煮てしまえば奇麗で真っ白な骨が得られることも初めて知ったのである。
「そういえば中学の理科の実験で蛙の骨格見本を作る実験があったなあ」
 先輩のHさんはコーラとサキイカを頬ばりながらウッシシウッシシと笑った。
「そんな肝心なこと、知ってたのならちゃんと思い出してくださいよ〜」
 わたしたちもモ〜! ウッシシウッシシと腹を抱えて笑った。


 わたしたちが作った茶色の牛骨は、それからしばらくして各々の手元に帰ってきた。わたしは額に開いた穴に紐を通してしばらくアパートの窓の外に干し続けたが、しかし一向にそれ以上白くなる気配もないし大家さんにも叱られたので、つい誰かにハズミであげてしまった。(ような気がする)
 受験の方は武蔵野美大に2月に合格したためか、そのあと3月の東京芸大の受験にはまったく身が入らず又々1次試験で落ちてしまった。今は逆のようだが、芸大油絵科の試験はその頃1次試験が石膏デッサンで、2次試験が油彩による静物画の試験だった。当然1次試験が受からない者は2次試験は受けられない。
 つまりわたしは、1度も「牛骨」の絵を描いたことがないのである。残念だ。




               





某月某日某所某笑
牛骨