「 暴動って何だ 」
自民党のニューフェイス“杉村太蔵議員”が色々なパフォーマンスをしてくれている。好き嫌いとはまったく関係なく「今までの議員たちとは違う種類のお馬鹿さん」だなあと思う。まあ、友達には居ないタイプだ。しかし才能は有りそうなので、現段階であまりチヤホヤしてスポイルされてしまうは惜しい。
それに、芸能人から議員になった人は多いけれど、議員から芸能人になったという記録も作ってしまえばいい。受けそうである。そしてさらに自民党は芸能プロダクションをやればいい、他にも変わった人たちがたくさんいるので結構儲かりそうである。もうやっている風でもある。
フランスの若者たちの暴動のニュースを見て、わたしはちょっとカルチャーショックを受けている。暴動とはなんだ? 久しく日本ではお目にかかっていない。「おまえはクズだ」と言われて始まる暴動、日本ではなかなか現実的には考えられない。新宿歌舞伎町あたりでの知能の低いガキ共のこぜりあいとは違うのだ。そもそも“暴動”という言葉自体が日本では“死語”になりつつあるのではないだろうか。
仮に日本で「おまえはクズだ」と言われたりすると「“クズ”はいいよなあ、ちょっとシャレで作った漫才のデュオがCDがあんなに売れてよう」なんて妙な返事が返ってきそうだ。わたしも知能が低い。
たった一つの横暴が口火になり、扇動されて次第に大きくなり、隣の町、さらに隣の町へ飛び火して国全体を危機に陥れる大暴動になっていくという状況が、今の日本では到底考えることができない。民族の問題、貧困の問題、人権の尊重度の問題、etc.と要因は様々あるのだろうが、とにかくものすごいエネルギーである。その類のエネルギーを久しぶりに見た気がした。
わたしに暴動を肯定するつもりがもうとう無いことなど諸氏にはわかっていただいている、とは思う。ただその原因、暴徒の心理、暴力が膨らんでいく過程のアンダーグラウンドでの若者たちの悲しみ、そういったものを同じ地球上で生きる者として知りたいと思っているだけである。
これも死語になりつつあるが“ノンポリ”という言葉があった。わたしたちの世代は盛んにそう呼ばれたものである。60年代の学生運動が収まった後、70年初頭に大学生になったわたしたちは学生運動闘志の残党にそう呼ばれた。ポリシーの無いどっちつかずの、腑抜け野郎ということであろう。個人主義が発達し(悪いことではない)、世の中が落ち着き、人生のシステムができつつあった。そして若者たちから引火性の強いエネルギーが失われてしまいはじめた頃である。そしてその後はその種のエネルギーは減衰の一途をたどった。
暴動に結びつくようなエネルギーを肯定するつもりももちろん無い。ただただ今の日本の若者たちには、あくまで全体的にではあるけれどエネルギーが感じられない気がするのだ。分別臭い、要領のいい若者が増えた。
そして日本という国は、まるで“子育てに失敗して失望している教育ママ”のようにも見える。
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