「 揚村家の受難 」

 わたしが生まれ育った鹿児島は「台風」のメッカである。わたしが2歳か3歳の時「伊勢湾台風」というやつが通り過ぎたらしいが、もちろんわたしは覚えていない。しかし大人たちから聞いた話によるとすさまじいものだったらしく、被害も歴史に残るものだったようである。
 伊勢湾台風ほどではないにしても、わたしの中にはいくつかの台風の思い出というものがある。海に近い所に家があったので、大きな台風が上陸しそうだということになると我が家ではまず植物を屋内に入れる作業が行われた。最初は父が大切にしていた「オモト」という観用植物の鉢植えが10鉢、次は母が大切にしていた「月下美人」や「シャコバサボテン」他が10鉢、そしてその他もろもろの草花の鉢が10鉢、6畳と4畳半の2部屋しかないその家の中はいきなりジャングルのようになった。
 雨戸は完全に閉められ、丈夫な板で×型に釘止めされていた。そしてたいていは停電になったから家の中は恐ろしく暗く、チャブ台の真ん中にローソクを1本立ててとる夕飯はもうほとんどキャンプのようでもあった。
 外の猛烈な風音に子供たちは脅え、屋根を叩く雨音に親たちは震えていた。しかし親たちは少しでも子供たちの恐怖を紛らわそうと、とっておきの桃缶の封を切ってみせたり、唯一できるトランプ手品を何度もくりかえしやってみせたりした。隙間風に揺れるローソクのあかりは、天井におそろし気な揺れる影を作ったが親たちはその影に合わせて即興でストーリーを物語ってみせたりした。台風の夜、我が家は愛に満ちていた。

 わたしは中学・高校時代を鹿児島の谷山市という所で過ごした。父が自宅を立てたのだ。今は鹿児島市に合併されているが、当時は静かな港と砂浜と松林のあるいい町であった。
 そして谷山には「ラ・サール」がある。超エリート進学校のあのラ・サールである。そして遠くは東京など県外からの入学者も多いので、当然谷山にはラ・サール専用の下宿屋が多いのである。わたしの自宅があった永田川沿いには特にラ・サールの下宿屋が多く、それも2階建ではあるが敷地面積が大きく、部屋数の多い巨大なものがほとんどだった。
 実は、わたしはラ・サール中学受験に失敗した経験がある。1点の差に何十人もが涙を飲むその受験で、わたしは14点も合格点に足りないという大敗を喫したのだった。ラ・サール生を見かける度にわたしは複雑な気分になり、それは決していいものではなかったが、教科書を風呂敷に包み、下駄履きで歩くラ・サール生とその気風には最後まで憧れがあった。
 わたしは結局「鶴丸高校」というところに入学した。県立では、まあ、1・2の進学校である。ラ・サールが東大に70人合格するなら、鶴丸は30人ぐらいの優秀度差だろうか。もっともわたしなんかは1年の時から美術大学希望だと公言していたし、勉強もせず1学年上の「みどりさん」を追いかけまわしていたのでクラスも「ドンベクラス」だった。ドンベというのはビリッケツのような意味であろうが由来はわからない。ドンベクラスにも東大希望なんて奴もいて、よく分からないシステムではあった。
 そんなドンベクラスのわたしにも、超優秀な友達がいた。揚村君だ。
 揚村くんは中学3年の時の同級生で、彼は夏休みの後頃に転校してきた。ヌーボーとした風体だったので少しヌルイ奴かもしれないと思い、級長だったわたしは大きなお世話だとは思いながら何かと面倒をみてやった。勉強なども教えてやろうか? と言ったが「いいです」とか言って勉強などにはあまり興味がない様子だった。
 わたしは「ああ、こいつはやっぱりヌルイ奴だったんだな」と思いながら、しかし妙に気に入っていて彼に付きまとった。我ながら嫌な奴だ。ところがである、二学期の期末試験でわたしの考えは見事に裏切られてしまったのである。1学年13クラスあるその巨大中学で揚村君はいきなりトップの成績だったのである。そしてわたしの「クラスじゃ1番」の歴史に終止符が打たれた。
 とにかく、きっと、おそらく、間違いなく揚村君は知能指数が高いにちがいなかった。わたしはチャンピオンベルトの奪回に燃え、珍しく奮闘努力したが結局足元にも及ばなかった。彼は相変わらずヌーボーとしていた。
 おおげさな話だが、わたしは揚村君に「社会の掟」をみた。
「どうあがいても、もう・もう・もう努力なんかじゃ絶〜対にかなわない人間が世間にはいっぱいいるのだ」という掟である。そして「無駄な努力はエネルギーの損失である」という人生の結論に達した。15歳にして、わたしは「俺、他のことで勝負しよ!」と決めてしまったのである。
 鶴丸高校で揚村くんは最初から「東大組」にクラス分けされた。彼はそれでもヌーボーとしたままで、会うと「あ〜!あ〜!」と象のように近寄ってきて笑った。知能が高いがどこか壊れている部分があって実に味のある奴だった。東大組にいてもドンベクラスのわたしとよく帰路を共にした。なぜなら揚村君の家は、わたしの家から70mぐらいのところにあったからだ。

 高校3年の夏、少し大きな台風がやってきた。幼少の頃のようなボロ家じゃなくなっていたので風雨に脅えるようなことはなかったが「こりゃあ、いつもの台風とはちょっとちがうぞ」ぐらいの規模ではあった。台風の風というやつにはリズムがある。のべつまくなしに風速35mの風が吹いている訳ではないのだ。「ビュービュー」も有れば「ビュ〜ウウビュ〜ウウ」もある。わたしはいつもよりでかい台風だな、と思いながら窓を1cmほど開けてその音を楽しんでいた。余裕のよっちゃんである。
 と、そのときである。「ビュ〜オワ〜ビュ〜オワ〜ベリベリべリッ」という音がして、50m先の空を巨大な何かが右から左に飛んでいった。夕方の4時頃である、さらに暗雲垂れ込めた風雨の中である、飛行物体の正体は分からなかった。嫌な予感がした。
「ズグズグッ、ギゴッ、ゴッス〜ン」音と同時にわたしはドアを開け駈け出した。
「揚村! 揚村、死ぬなよ!」わたしは心の中でドラマチックに叫んだ。飛行物体の落ちたらしい先には「日本の将来を担う揚村くん」の家があった。
 
 揚村くんの家はものの見事に全壊していた。平屋の小さな家の上に25m四方の巨大な下宿家の屋根が突き刺さっていた。いや、一度突き刺さってからさらに乗ってしまった感じであった。角ばった巨大きのこのようだと一瞬思ったが、それどころじゃない。家全体がペシャンコである。
「揚村! だいじょうぶか!」
 わたしは、今まさに下敷きになった家の窓からはい出て来たばかりの揚村くんに叫んだ。しかし彼は平然としていた。突風に髪を逆なでされながらも、ヌーボーとした顔でかすかに笑いながら立っていた。
「ラ・サールにやられたよねえ! ラ・サールが降ってきたよねえ!」
 彼はいつも通りボソボソとした口調で言った。わたしは改めて思った。世の中には逆立ちしても、もうどんなことをしてもかなわない奴がいるのだ、と。
 さらにその後聞いた話では、屋根が無くなった事にも気付かず部屋で目覚めて「台風のあとの星はきれいだ」と言ったラ・サール下宿生もいたらしい。キザで可愛気のない奴だが、こいつにもまた歯が立たない。

 揚村くんはその後見事に東大に受かり、その中でもずば抜けた優秀さを発揮した……らしい。今頃どうしているのかはさっぱりわからないが、高級官僚などになっているとしたら、こんなご時世だ、さらに色々なものが彼の上には降ってきているかも知れない。




               





某月某日某所某笑
揚村家の受難