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某月某日

「戸田の家」

 駅へ向かう途中にある、その奇妙な装飾を施した家の前を通るたびに律子はきまって同じことを考えた。
「この家には、おそらく5匹以上は住みついているわ」
 根拠のようなものは何もなかったが、塀に取り付けられた怪しいマネキン首やデスマスクのようにも見える石膏製のお面を見て、律子は確信を持ってそう思ってしまうのだった。

 東京でひとり暮らしをはじめて6年になった。大学を卒業した次の年に父親を癌で亡くし、失意の裏返しのような形で上京、独立を決意した。かねてから東京で出版関係の仕事に就きたいのだと公言していたのだったが、その希望が叶う思いがけないチャンスとも重なり、律子は生まれ育った静岡をついに離れたのだった。そしてその独立には、さらにもうひとつの大きな理由があった。律子は母親と暮らすのに耐えられなかったのである。
「向こうの“家”に行ったっきりで何年もうちには寄りつかなかったくせに、歳取って放り出されたからってわたしを頼らないでよ、どういう神経してんのよ、父さんの命を縮めたのは自分だってことわかってんの? よくもノコノコと……」
 父親の死後、時々家に戻って来るようになった母親を律子は顔を合わせる度に毎回ののしった。常識的には考えられないことだったが、死んだ父親は出奔した妻の籍を抜かず8年間ずっとそのままにしてあったのだ。母親はその50歳という実年齢よりはるかに老け込んでいた。哀れなほどに頭をさげて謝罪してみせたりしたが、律子はその女の身勝手さを許す気持ちにはなれなかった。
「あなたの取り分なんて何もないのよ、家と土地はとっくにわたしの名義になってるんだから、家賃をもらうわよ! わたしの母親は8年前に死んだのよ」
 律子は、母親が本当に死んでしまったのだったら自分のこれまでの人生もどんなにか楽だっただろう、と思ってみたりした。  

 母親はもちろんのこと、親族とも縁を絶ちきった形で田舎を出た律子だったが、父親の命日にだけは日帰りでこっそり帰省しようと決めていた。自分以外に墓参りをする人間はおそらくいないだろし、静岡そのものは心癒される故郷として愛していたのだった。
 花とバケツと柄杓を持ち、左に海を見ながら坂道を登って行く。11月だというのに日当たりのいい丘の上の墓地は春のようだった。
「小春日和とはよく言ったものねえ」
 律子は日差しのそのぬくもりだけが父の人生を慰めてくれているような気持ちがした。命日とはいってもおそらく誰も花など生けていないだろう、墓石も汚れているかもしれない、律子は父の墓に一番近い水場でたっぷりとバケツに水を汲み最後の急な坂道を折り返した。2mほどの石段を登りつめて視界が開けたその瞬間、律子は父の墓前に異様なものを見たのだった。花挿しにビニールでできたバラや桔梗や菜の花の造花が挿してあったのだ。季節柄回りの墓に花は無く、上品な冬枯れの景色の中でそこだけが安っぽく下品な彩度で際立っていた。
「馬鹿にしているんだわ、気持ちが悪いのよ、こんなもの、こんなもの、こんなもの!」
 律子は取り乱し、狂ったように造花を抜いて踏みにじり蹴散らした。死んでまでもあの女に馬鹿にされてと父親の最後を思い出し涙を流した。父の人生そのものを汚されたような気がしたのだった。
「どうして離婚しなかったの、どうして籍を抜いてしまわなかったの、あの女は何も変わっていない、頭がイカレテいる」律子は震えながらつぶやいた。

 母親が出奔したのは、律子が14歳の秋だった。衣服のひとつも持ち出すでもなく、買い物に出てそのまま戻らなかった。しかし父親は妻を探すこともせず、まるで行方を知っているかのように静かに日々の暮らしを続けた。まわりの縁者たちが大騒ぎするのを迷惑気にさえしているようだった。離婚の話が出るたびに、はぐらかす様に部屋へこもり会計士として持ち帰ってきた仕事をこなした。父親の真意は誰にも解らなかった。
 かしましい縁者たちの口からもれる話の断片は、律子の頭の中で次第に繋がっていった。正しく繋がっているのかは解らなかったが、父と母という名とは別の大人の男女の生臭いストーリーを紡いだ。おもしろおかしく曲げられた縁者たちのささやきは、律子に赤く熟れた獣の尻をイメージさせた。律子は同性として母親を忌み嫌い、淫乱のDNAは遺伝するらしいという父方の伯母の不遠慮な言葉に不安をおぼえた。中学生の頭で考える限りでは、父の方に非は無いように思えた。
 出奔した日から1年ほど経った頃、律子は母が暮らしているらしい町を訪ねた。母親に会いたいという気持ちは微塵も無かったが、妄想過多ぎみの火照った頭を冷やすには実際に母親の暮らしぶりと、いっしょに暮らしているらしい男の顔を見る以外にないような気がしたのだ。そんなものを見て、どうなるものでもないことは解っていたが何かに決着をつけなければ生きてはいけないような気がしたのだった。
 まだほとんど人影のない早朝、律子は父親に感づかれないよう窓から外に出た。寒くはなかったが制服のブレザーの襟を立てると、辺りは正月のような匂いがした。もう家族全員で正月を迎えることはないんだな、と律子は風の中で思った。電車に30分乗り、伯母が書いてくれた地図通りに歩くと一軒の大きな家の横に出た。その家にはイヌマキの立派な生垣があり、2mほどの高さでびっしりと葉を生い繁らせ家全体をとり囲んでいた。まだ所々に畑地が残っているような新興住宅地の中で、その家の敷地面積はひときわ目立っていた。
「昔はこの辺の地主だったのよ、きっと男は田畑を切売りして生きてきたような放蕩馬鹿男に違いないわ」15歳の女探偵は決めつけた。
 手入れの行き届いた密な生垣からはなかなか内部が覗けなかった。生垣の厚さが1mはある。律子は怪しまれないようにとイヌマキの実をつんでいる振りをし、口に運ぶ演技までしながら裏口を探して角を曲がった。
 それは突然律子の網膜に突き刺さるように現れた。南に面したイヌマキの生垣にはビッシリと桜の造花が刺さっていたのだ。パチンコ屋の開店祝いに飾られる花輪から、たった今抜き取って来たようなビニール製のおそろしく悪趣味な造花だった。それが高さ2m、長さ50mに渡ってビッシリ刺されてあるのだった。
「たいへんなことになったわ」律子はただならぬものを感じ取った。巨大で異様な生物を敵にまわしてしまったような錯覚に陥った。
「宗教団体かも知れない」律子は意味もなく無意識に胸で十字を切った。
 門柱脇にかすかに隙間があるようだった。ビニール桜につい翻弄されてしまったが目的は中の様子を見ることなのだ。律子は回りをうかがいながら扉の閉ざされた門の方へ近づいて行った。色彩感覚が造花の桃色で狂ってしまったのか、門柱に貼りつけられた分厚い板がグリーンに見えた。律子は口を半開きにしたまま板に書かれた墨文字を読んだ。
「羽無き者たちよ、心に花を咲かせましょう  カマドウマの家」
 律子は得体の知れないその言葉の羅列に、そこはかとなく吐き気がこみあげてくるのを感じた。そのまま走って逃げ出したい気分になったが、一方でその最後のカタカナ言葉が気になってしかたがなかった。
「カマドウマ? お便所コオロギ?」律子は思わずブブッと笑った。小さな笑いだったが、そのおかげかどうか少し落ち着きを取り戻せた気がした。人が来たらすぐにかがんで次の演技ができるように靴ひもをわざとほどいた。

 玄関脇の陶器のコリー犬2匹を一人の猫背女が丁寧に磨いていた。同じ所を同じようにいつまでも拭いているので掃除をしているのではなさそうだった。その横では、壁に付けたカラフルなお面を背の高い別の女がこちらもまたいつまでも磨いていた。夜店で売られている安いアニメのお面だ。磨き過ぎて模様が取れてしまわないだろうかと律子は余計なことを考えた。
 奥の方の木戸が突然開いたのは、律子の腕時計のアラームが鳴ったまさにその時だった。いつもの起床時間をOFFにするのを忘れていたのだ。あわてて音を止め8時を確認した。蛍光ピンクの蓮花を両腕で数十本ずつかかえた女たちが現れた。律子は母親の顔をその中に探したが見当たらなかった。8人の女たちは誰かの号令で動いているようだったが、声を発しているらしい者は近くにはおらず合図の笛のような音もなかった。女たちは築山の前に整列しいっせいにその蓮花を築山に突きさし始めた。それほど大きくない築山はほどなく蛍光ピンクのかたまりになったが、作業はそれで終わりではなくその後は蓮花を引き抜く作業とまた突きさす作業をとめどなく繰り返すのだった。
「一体全体、こいつらは何なの?」庭の中で無言でうごめく合計10人の女たちを見て、律子は悲しみや哀れみを覚えるどころか、心の底から軽蔑した。「理由はどうあれこんな所に逃げこんで何が“心に花を咲かせましょう”よ、身勝手で弱くて逃げることでしか救われないクズの集まりだわ」
 律子は殺意を覚えた。そしてある1点に気付いたのだった。もう30分以上その女たちを見つめ続けていたのに、その時点まで気付かなかったのが不思議だった。10人の女たちは全員こげ茶色の割烹着を着ていたのだ。しかも前後をさかさまにだった。
「カ、カマドウマだ!」律子は後ずさりしながら恐怖を感じた。しかしその恐さの底のほうからジワジワとおかしさがこみあげてくるのもわかった。
「アッハッハ、アッハッハ、アッハッハ!」
 律子のカン高い笑い声に10匹のカマドウマがいっせいに律子を見た。赤い目のように見えたのは手にもった蓮花のせいかも知れなかったが、それは明らかに殺意を帯びた赤色だった。
「いつか必ず虫退治に戻ってくるからね! アッハッハ!」
 律子は強がりとも開き直りとも分からないことを叫び、その場を走って離れた。
 結局その日、律子は母親の姿を見ることはできなかった。夫以外の男と恋仲になり家庭を捨てて出奔した、という単純な話ではないらしいことはなんとなくわかったが、理由はどうあれ母親の突然の出奔を許すことはできなかった。陶器の犬やお面を磨いても、築山に黙々と蓮の串を刺しても誰ひとり救われるものでもないと思ったのだった。
「人生なんて辛いことでいっぱいなのよ、それはみんな同じなのよ、1ヶ所に逃げこんで、つるんで花植えたってしかたがないのよ!」
 律子はツバを吐きながら走った。

 伯母はその後も折りある毎にさまざまな情報を持ってきた。カマドウマの家がさらに大きくなりつつあることや、“王子”と呼ばれる中心の男が元々あの家の住人ではないこと、さらにはその元の住人が行方知れずであることで警察も動き始めているらしいことなどをどこから聞きつけてきたのか得意気に律子に伝えた。共同生活をしている女たちがそれぞれの事情を持っていることは想像できたが、伯母はまた別の独自の情報網でその中のいくつかの詳細までもつかんでいるようだった。父親の姉にあたる彼女の、歯に衣を着せない物言いは時として品位を疑われ、親族間でも嫌われものだった。律子の父親が逝く時でも「顔色が白っぽく変わってきたわよ、もうすぐねえ」などと無神経に口にしてしまうような性格だったが、無神経がゆえに真実を言い得ていることもまま多かったので、律子はいつも無視を装いながら片耳だけは軽く傾けているのだった。
「あれねえ…、お父さんはインポテンツなのかも知れないねえ…、まあだからってねえ家族を捨てていいわけじゃないけど、わかんないけどねえ」
 律子が高校、大学と成長するにしたがって、伯母の話の内容も赤裸々なものに変化していった。もうその頃になるとほとんど叔母の妄想のようだったが、そういうことも有るのかも知れないなあと思えるまでに律子は大人になっていた。父と母の間になにがあったのか、辛く悲しいことなのか、それとも単に一方的な母親のエゴだったのか、父の方に理由があるのか、性的なことなのか、律子は数年間自分の生活のすべてがその事を悶々と考え、知るためにだけ費やされてきたような気がした。一番美しく楽しいはずの10代をカマドウマたちに台無しにされてしまったような気分になっていった。


 その家のまわりには日曜のけだるい時間が流れていた。駅に近いというのに人通りがほとんど無い。交差点をはさんで対面に位置する喫茶店から、律子はその家に出入りする人間の種類と数を確認した。午前9時から夕方の4時までの7時間の間に7人の女が出入りした。出る時も入る時も異常にまわりをうかがっている。全員がサングラスをかけていた。思った通りの結果だった。
「茶色の割烹着がサングラスになっただけだわ、床の間には“優しい光を見よう サングラスの家”とか書いてあるに違いないのよ、いずれにしてもカマドウマだわ、家庭を捨てた自分勝手な女たちの溜り場なのよ、だわ。フフフッ、わたしの方が異常なのかしら? だとしたらきっと頭の病気だわねえ」
 律子は一瞬自分を疑ってみたがすぐに首を横に振り、少しぼんやりしかけた頭の中を覚醒させた。
「母親ってねえ、何があっても家族を捨てちゃいけないものなのよ」律子は15歳の冬にみた“カマドウマの家”を思い浮かべながら小声でつぶやいた。6杯目の紅茶を飲み干し、律子はバッグの中のボンベを指で確かめた。レバーを倒せば中の液が噴射し続ける仕掛けは自作した。後はその家の入り口から中に放り込むだけである。
 律子は喫茶店を出て歩き出した。バッグに手を突っ込み、少し距離を置いた場所で信号の青を待った。そして青と同時に律子は走り出した。スピードを上げながらレバーを倒した。イメージトレーニング通りのタイミングを測った絶妙のアンダースローは確実にボンベを家の中に突入させた。そして辺りにはかすかに異臭が残った。
 律子はそのままのスピードを保ったまま走り続けていた。喉の奥でカワセミのようにヒクヒクと笑った。そしてそれは律子自身では止められなかった。声を出しながら走ったせいかすぐに息が切れた。無性に喉が乾きつばも呑みこめなくなっていた。律子は公園の水道のコックに伸ばした手をふと止め、指に残ったボンベの感触を確かめながら達成感を味わった。そして笑いともあえぎとも分からない声でつぶやいた。
「カマドウマってゴキブリ用のコックローチで死ぬんだったかしら?」
 西の空に夕焼けは無かったが、律子の目は鈍く赤い光を放っていた。