「 田口清さんのこと 」

  とにかく、大好きな人たちがたくさん死んでしまった。ジム・クロウチ、ジョン・レノン、向田邦子、植村直巳、星野道夫、岡田昇……。飛行機事故、射殺、遭難、熊におそわれて……それらの死はあまりにも突然だった。突然だったからもちろんショックも大きかったし、少なからず影響を受けた人たちなので悲しくてしばらく茫然とした。
 
 しかし田口清さんの死はまた特別だった。ファンの方も多かったと思う。フォークグループ「 猫 」のメンバーだった。リードボーカルをとったヒット曲も多かったはずだ。有名なところでは「雪」。“雪でした あなたのあとを なんとなくついて行きたかった”、思いだしていただけただろうか。
  田口さんは歌手を引退したあと、ユイ音楽工房にディレクターとして残り主に新人発掘や作詞家・作曲家の育成にたずさわっていた。わたしはビクターの音楽学校の講師・チーフディレクター・マネージャー・経営スタッフと名前だけのものもあるけれど、まあそんな立場にあったので「こんな曲を書く人がいるんだけどどうだろう」と、田口さんにはいつも無理をお願いして聞いてもらったものだった。
  お互いにアーチストであった過去をもち、うよ曲折の末に裏方に回ったという経歴だったので通じるものが多く、わたしもビクターで多忙だったことも有りいつのまにか前の業界と疎遠になりがちな環境のなかで、田口さんとのつながりだけがかすかに夢の余熱を感じさせてくれる……というような状況だった。
  ある日、昔のマネージャーから電話をもらい、田口さんの死を知った。亡くなってから1週間ほどたっていた。当然、葬儀もとっくに終わっていた。
「 なんですぐに知らせてくれなかったんだ! 」
  わたしは元マネージャーにつかみかからんばかりの剣幕で言った。言い訳など一つも受け入れたくなかった。

  田口さんの死因は自転車での事故死だった。子供用補助席に我が幼子を乗せ、坂道を下っている途中、なにかにつまづいて自転車ごと、親子ごと転倒したのだ。田口さんは子供をかばい、無理な姿勢のまま倒れ込み、その結果頭を強く打って亡くなった、ということだった。
  らしいなあ……といえば故人に失礼になるのかも知れないけれど、じつに「 いい人、田口清 」らしくてわたしは柔らかい気持ちになって涙をながした。
  田口さんの奥さんをまったく知らないこともあり、結局ご自宅にうかがって線香をあげることもできなかった。それだけは少し後悔している。

  田口さんとの思い出はたくさんあるけれど、それらの中でひときわ異彩を放つエピソードがある。残念だがこれは目撃談ではないので真偽のほどは定かではない。
  田口さんは少し尿道のしまりが悪かったというのだ。だからおしっこが近かったらしいのね、で本人もしっかり意識してたから普段はなんてこと無いんだけど、ちょっとお酒を飲みすぎたりすると気も尿道も緩んでしまって、軽くお漏らしをしてしまうらしいのだ。
  で、ある日、かなり飲んで最後にそば屋の屋台にはいった。そこでそういう状態になってしまったらしい。「あ、やっちゃったあ」ってところだったんでしょうね。それで普通ならまあ、もぞもぞ荷物か何かで隠したりするところなんだろうけど、田口さんはどうしたか。
  田口さんは食べかけのそばのどんぶりをさりげなくわざとひっくり返した。そして「あっ、やっちゃたあ」と派手に言い、お漏らしの濡れをそばつゆの濡れでカモフラージュしたらしい。それから「大丈夫、だいじょうぶ、こりゃ〜シミになるなあ」などと言いながら帰っていったらしい。
  わたしは最初腹をかかえて笑ったが、彼が亡くなってから再度この話を思い出し、田口さんの人柄を忍んだ。
  この話は、「 そんな話まで何故書くんだ!」とお叱りをうけるかも知れない、と最後まで書くことを悩んだけれど、そんな「弱み」こそが本当に人を語るうえで大切なのではないか、とそういう結論に達してあえて書かせてもらった。
  あんな「いい人」はそうそういない。いい人は早く死んでいく、というのはホントのことのようである。

「謝って欲しい長生きしてる奴 」って、いっぱいいるよね。