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わたしが歌手だったことは家族も知らない
「詫びるなら…今でしょう!A」

 岡田冨美子さんという作詞家をご存知だろうか。「ロンリー・チャップリン」や「タクシー」その他たくさんのヒット曲を持つ人気作詞家である。津田塾大学卒業の才女でもあるのだ。

 で、デビューして4年目ぐらいの頃の話。
 ディレクターの清瀬がこう言ったのだ。
「小林の詞はさあ、切り口が斬新で独特でいいんだけどさあ、いいんだけど地味で弱いんだよなあ。アルバムの中に入っていたりするとさあ、ああ面白いなあって思うんだけどシングルにするにはちょっとやっぱ弱いかなって感じなんだよなあ」
 わざわざ口にしてくれなくても、そんなことは実は本人が一番よく分かっていることで、百も承知している事だった。しかし「俺は歌謡曲歌手ではなくシンガー・ソング・ライターなんだから、他の人が気づかないような些細な事でも一つの詩(うた)として作品に作り上げているのだ。自負もある。わかっているのだから、それでいいのだ」という妙な価値観を持っていたのと、生来意固地だったせいで、まあその後もフワフワした曲を書き続けていたのだった。
 が、いつまでもわがままばかり言っていられるほどプロの世界が甘くないのもまた事実である。

 ディレクターの清瀬が岡田冨美子さんと仲がいい(知り合い?)と言うので、とりあえず自宅に遊びに行こうということになった。しかしまあ遊びに行くというのはわたしに対する方便で、清瀬にしてみれば「詞の依頼そのもの」だったのだろう。家に上り込んで話していくうちに「どんな世界を目指しているのか」「今までに聞いた歌で理想に近いものはなに?」とか「どんな男になりたいか」とかいろいろと質問攻めにあった。
 ところがわたしときたら、飲んだこともないようなリッチな酒と横文字混じりの珍味ツマミをどんどん頂き、大先生相手に恋愛論をぶちあげ、挙句の果てにポッチャリ顔の魅力的な先生をあろうことか口説いてしまう始末。さらに何か固いツマミを噛んだ時に軽く自覚症状はあったのだが、その後口角泡を飛ばしながら喋べくりまくっている途中で、前歯の差し歯がポトッと落ちてしまったのだった。

 もうその後のことは多くを書く必要はないだろう。全員笑い転げ、床を這いずり回った。清瀬は岡田先生に土下座をして謝っていた。
 わたしは差し歯が抜けた穴をニッと見せ、腹をかかえながら「先生、自分の歌の詞は自分で書きますから結構です」と叫び、先生は先生で「小林くん、わたしにだってあなたの詞は絶対書けませんわ」とおっしゃったのだった。


 ほんとうに、ほんとうに失礼の数々、心よりお詫び申し上げます。
 とはいってもなあ、その後けっきょく三浦徳子・喜多條忠大先生にシングル盤用の曲を1曲ずつ書いてもらったのだけれど、それでも売れなかったという結末があって、後になってそのことで実に悔しい思いをした記憶がある。どうせ売れないんだったらさ、とことん突っ張るべきだったのかも知れない。
 この期に及んでまだそんなことを……みなさん、ホントごめんなさい。