大漁の男たちが帰ってくる

不漁の男は座っている

貝を釣ってどうすのだ!

ヒイラギを釣ってどうする

エーイ、殺してやるー

2014年05月30日(土)「  確率の問題 」

 小学校4年に上がる時に、父の仕事の都合で隣村の学校に転校した。田舎の(旧鹿児島県揖宿郡)小学校とはいっても、一丁前にイジメや暴力もそれなりにあるわけで、新しい学校の連中にナメられてはなるまじと、わたしはとにかく意固地になって突っ張った。とは言っても、たとえばこれが中学や高校だったら木刀やらナイフやらチェーンやらと激しく荒んでゆくのだろうが、所詮は小学生である。
「おまえの言葉は方言だ」と方言同士でののしり合い、せいぜい相撲のような取っ組み合いになる程度である。

 ケンカばかりしてはいたけれど、今思うといい環境だったなあと思う。校舎は高さ30mほどの小高い丘のてっぺんにあって、眼下の500m先にはキラキラ光る海が見え、晴れた日には飛び魚の群れが飛ぶ銀色のラインが目視できるのだった。
 校庭は一周200mのトラックがギリギリ取れる程度の規模だったから、運動会の折りなどには応援席の後ろの緩やかな崖を巻き寿司がコロコロと転がり落ちてゆく光景がよく見られたものだった。

 約1年半で、つまり5年生の夏あたりでわたしは全校の勢力を完全に掌握した。今でこそ小さい爺さんだが、当時のわたしは早熟で体も大きい方だったし、ミカン泥棒で鍛えた足腰で風のように走りまわり、黒豚の後ろ蹴りからあみだした“トンコツ蹴り”も冴え渡っていた。もう既にわたしの右にでる者は無く、6年生ですらわたしを「みちひろさん」と呼んでいた。
 それからもうひとつ、上級生からも尊敬される特別な才能がわたしにはあったのである。
「石投げ」である。遠投距離も正確さも並みではなかった。校庭の端に砂利を積んである場所があって、そこから投げると石は校庭を飛び越えて校外へ飛び出して行くのだった。70mは優に超えていただろうと思う。当然学校側からは禁止されている遊びだったのだが、崖の下に吸い込まれてゆく投石の軌跡は一時優越感にひたることができて妙に魅力的だった。
 正確さ(コントロール)もピカイチだった。30mの距離で電線上の雀を何度も仕留めたことがある。日本野鳥の会の皆様は卒倒してしまいそうだが、わたしは鳥を殺すたびに指をポキポキと鳴らしてポーズをとった。
 当時「忍者」がブームで、何代目か知らないが本物の忍者の子孫という忍者オヤジが学校を訪ねてきて、石を投げたり催眠術を披露したり、首の喉仏の部分で鉄の棒をへし曲げたりしたのだ。わたしは自らを「紫光」と名乗り忍者部隊の一員になりきっていたのだった。

 まあ、そんなことはどうでもいいのだ。
 で、ある日、わたしは仲間の5〜6人と一緒に校長室に呼ばれた。崖下のビニールハウスに10Cmぐらいのガラスの破片をズボズボと投げて大穴を開けたのがバレたのだろうと、全員覚悟して部屋に入っていった。しかし事情は少し違っていた。
 目の前に30歳ぐらいの女が座っていて、頭の半分程を覆うように大袈裟に包帯を巻いている。わたしたちは震え上がった。人気のテレビ「恐怖のミイラ」かと思ったからだ。な、訳はない。

「一昨日の昼休みにな、お前らまた石を投げちょったな? お前らの投げた石がな、この女の人の目の横に当たったんじゃっど。5センチずれちょったら失明じゃっど。失明っち分かるか、みちひろ?」
 校長は怪我をした女性の手前、わたしたちをかなり強い口調で叱責した。
「誰が投げた石が当たったのかは分からん。だいたいそんなことが分かるわけが無い。全員の責任じゃっど。じゃっでお父さんやらお母さんを呼んで、いろいろこれから話し合いじゃっどん、お前らが今することは、全員土下座して○○の奥さんに謝らんななあ、じゃっどー。」

 事の重大さは十分に分かっていた。失明の意味も知っていたし後遺症の意味も分かっていた。少し前に、木に登ってセミ採りをしていた友人を見上げていて、落ちてきた棹が目につきささり失明した子分がいたからだ。父母にもかつてないほど叱られた。保障の問題も難儀そうだったし、それどころか一歩間違うと彼女は死んでしまっていたかも知れないのだ。わたしたちは殺人を犯しかけていたのだと本気で猛省した。
 しかしもちろん反省はしたのだが、それとは別にわたしには妙な不遜な確信があった。根拠などはもちろん無い。
「当たった石は絶対俺が投げたものやろなあ、おそらくなあ」
 根拠にはならないが、崖下まで石を届かせられるのはわたしが10回のうち8回ぐらい、他の仲間が10回に2回ぐらいなのだ。自慢している場合じゃないのだが、わたしは実際のところそんなことを考えていた。
「こういうのは何て言うんだろう。何回やって、そのうち何回成功したとか、何発当たったとか言うのは何て言うんだろう?」
 もちろんそれを知りたかったのだが、そんな事件があった直後だったこともあり、わたしは大人たちにその言葉を訊ねることはできなかった。

 中学に入ってから(また転校したのだ)しばらくすると「確率」という言葉を知った。
 わたしは、5人の子供がほぼ10秒に一個の石を投げて30分遊ぶとして、それも遠くまで飛ばせるやつと飛ばせないやつがいるとして、飛ばせない奴も石の形によっては飛ぶこともあったりして、さらに崖の下を歩いている若い婦人は動いている訳であり……などと、小学5年の時に起こした事件の確率を考えてみたりした。やっぱりわたしの投げた石だろう、と思った。
 そして、突然だが、考えたこととは全然関係なく、ついに気づいたのだ。
「世の中、確率の高いことだけを確実に続けていけば、必ずや世界に通用する成功者となれるに違いない。そうだ、きっとそうに違いない!バラ色の人生が待っている。これが小林倫博の法則だ〜!」


 あれから50年。今日も確率の非常に低いことをしてしまいました。
 犬のソラが我が家にきて今日でまる4年、祝いに食わしてやろうと片貝漁港まで40cmの黒鯛を釣りに来たのだが、確立が0%でありました。
 ん? 餌代にかかった¥500で、スーパーで20Cmの鯛が買える確率は100%であるかもしれない。アチャー、もう少し早く気づいていれば……。





                  





mk
物事は、すべて確率で考えよう 
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