JR新橋駅、SL広場の片隅に1本の「カイコウズ」の木を見つけた。2mの高さに満
たない幼木ではあるけれど、獣の舌のような赤い肉厚の花をいくつか付けて、それは私の
心を強くゆさぶった。
「もう忘れてしまわねば、と思っていた女にバッタリ逢ってしまった時の気分ににている
なあ」
 私はそんな経験などないくせに、ふと気取って演技じみたことを思ってみたりした。
 東京で暮らし始めて30年、故郷に「帰郷」というものをしなくなってからも早5年経
ってしまっている。
「帰る所が無くなったもんなあ」
 私はその赤い花に向かって語りかけた。
 カイコウズは鹿児島の花である。故郷の花である。
「父を殺してしまった」という罪の意識は、あの日からずっと私の中に宿ったままだ。い
っこうに消え去って行こうとはしない。それどころか、記憶を言葉で幾度もたどったため
かますます生々しさを増して、すっかり頭の中に定着してしまった。
 抜けるような青空、風に揺れる濃い緑の枝葉、エキゾチックな花の形と心をかきたてる
ような強い赤、私はカイコウズを見上げながら遠い昔のまだ十分に若かった頃の父を思い
出した。
「子供というのはな、いつか親元を離れて行くものだから、私たちのことはな〜んも心配
せんでいいからな、自分の思った通りにしなさいよ」
 教育者でもあった父は、やさしく諭すようにそう言った。そしてその言葉に甘える形で
私と姉は早い時期に故郷を出たのだ。
「母さんと二人でな、毎日のんびり楽しんでいるよ。旅行に行くとその先々で新婚旅行で
すかって聞かれるよ、ハハハ」
 父の手紙の「ハハハ」にはいつも閉口させられたけれど、添えられた写真の中、白い日
傘に笑いながら肩を寄せ合う父と母の姿に、私と姉はホッと胸をなでおろすのだった。
 あの頃はまだ、歩く速さで時が流れていた。
 やがて姉も私も共に家庭を持ち、毎年夏には私の家族が、そして正月には姉の家族が帰
省し楽しい思い出を重ねていった。
 孫たちに囲まれて、かつての小学校教師はご満悦だった。虫や花の名前、九九や算盤、
父はヒーローだった。
 けれど祭りの終わりは寂しいものだ。父は別れ際にもう来年の夏の話をした。
「年に夏が2度あればなあ」
 私はホロリとさせられたけれど、大きく大きく振られる父の手はまだ力強かったのだ。
 そしていくつかの輝く季節を重ねる内に、時の流れる速さも駈足ほどになっていった。
1年振りに会う父の姿の変わり様に驚かされることが多くなったのはその頃からだ。
「押し入れの布団の間に、ン十万円も置き忘れていたのよ〜」
「カナリヤに餌をやり忘れてしなせたのよ〜」
 父より7歳若い母の台詞は、悪気は無くても容赦もなくて、私は父が今にも怒り出すの
ではないかとハラハラしながら聞いた。けれど父は恥ずかしそうに笑うだけだった。確実
に老いていたのだ。
「お父さんの体がまだ動く、今が最後のチャンスだと思うのよ」
 姉は父と母に、関東への移住を勧めた。誰もが考えていながら誰も口に出さなかったそ
の一言は、それに関わる全員の心をグラグラ揺すり、そしてクタクタにした。口論もした
し全員がわがままにもなった。
「故郷も帰る家も無くなる訳だけど、あんたは本心どう思うとな? それで本当によかと
な?」
 父は長男の私に聞いた。私は「よかよ」と答えた。それ以外の答えが私には見つからな
かった。みんな40%の不満を抱えながら、60%の新しい幸せの可能性を選んだのだ。
「最善の道」と信じたのだ。
 家も土地も売る払い、未練を残さぬようにと庭木もすべて切ってしまった。姉は千葉に
家を新築し、父母のために自炊できる部屋を用意した。
 捨てがたいものも捨てざるをえなかったのであろう、半分以下に荷物をすべて送り出し
あとは老体の父と母を私が迎えに行くだけとなった。形は変わってしまうけれど、60%
ではあるけれど、幸せがあと数日で始まろうとしていた。
 父が倒れたのは出発の5日前だった。軽い脳梗塞だった。意識がはっきりしているのが
せめてもの救いだった。
 私と姉が駆けつけると父は「なんだ、なんだ」と言って笑い、盆と正月が一緒に来たと
喜んだ。何十年振りかの家族水入らずの病室生活になった。
 交代で父に付き添い、夜は私がベッドの脇で寝袋にくるまった。薬のせいなのか父は興
奮気味で、楽しかったこと可笑しかった思い出をしゃべり続けた。
「本当は鹿児島で死にたいけどなあ」
 父は本音を漏らした。そしてやっと眠ったかと思うと、今度は突然寝ぼけて私を起こす
のだ。
「母さんはもう一人で千葉へ行ったとな?」
 私は「母さんはいるよ、母さんは家にいるよ」と言いながら父の手を握った。
 不思議なことだけど私は妙に幸せな気分だった。そんなにたくさんのことを父と話した
のはそれが始めてだったからだ。
 容体が急変したのは、皮肉にも本来なら上京する予定だった日の朝だった。父の肺は一
晩で真っ白になっていた。悪性の肺炎だった。
 気管に管を入れなければもたないと医師は言い、意識の朦朧とした父を手術室へ運んで
行った。ほとんど気絶状態の母に代わって、手術の承諾書には私が署名した。
「長男さん、長男さん!」看護婦に手招きされて入った手術室の中で、医師は必死で心臓
マッサージをしていた。運び込まれた直後に心臓が止まったのだと医師は作業を続けなが
ら言った。
 15分、20分、父の呼吸が戻った。奇跡のようです、だけど脳が死んでしんでしまっ
ているかもしれない、医師はそんな意味のことを言ったような気がした。
 私は「先生、もう機械を止めてください」と言ったような気がする。
 母は結局父の遺骨を抱いて、それから1ヶ月後に上京し姉の家に入った。憔悴しきった
母を元気付けようと私は足しげく姉の家を訪ね、出来る限り明るく振舞った。そしてその
一方で自責と言い訳と妄想を繰り返した。
「お前は面倒になっただけじゃないのか」
「あの時、父は意識があったのではないのか」
「回復したかもしれないじゃないか」
「どうして衝動的に一人で決めたんだ」
「植物人間になったとしても、母は父に生きていて欲しかったはずだ」
 私は母に謝りたかった。話して楽になりたかったのだ。そして母もまた、あの日の父の
最期の様子を聞きたがった。
 喉まで出かかったことが何度もあったけれど、私がそうしなかったのは妻のさりげない
つぶやきがあったからだ。
「一生消し去れないものってたくさんあるわ、故郷もそう、無理してもだめよ。それと口
に出さないことで守られていることの方が世の中には多いわ。……結局お父さんは望み通
り鹿児島で死ねたのねえ」
 私は父の死に初めて涙した。
 新橋駅SL広場の片隅で、私は人目を気にしながらカイコウズの花と枝を少し盗んだ。
花は父の墓前に供えるために、そして小枝は我が家のベランダで挿し木にするためだ。
カイコウズの花