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またまた物に話しかけてるわたし

メーカーの商品写真。美しい

元通りに出来るかが問題

ボカシてもゴミ屋敷である

同志は傷だらけだ
2015年01月28日(水)「 同志よ 」

 誕生日なので2日間の有給休暇をもらっておいたのだ。暖かくて風が無いようだったら、栗山川に今年初のカヌーに行く目論見だった。が、寒くて風強し。かくして「61歳の船出」という素敵なタイトルは流れた。
 天候が良くなかった場合のセカンドプランとしては、楽器の修理である。
 曲作りをもう一度やってみたい旨は先日書いた。機材もまあちょっと古いが、らしいのを揃えてみた。無くても何とかなるのだが、USB接続の打ち込み用MIDIキーボードが欲しくなって買った。パソコンだけで打ち込むより弾ける所はガンガン弾いて入力した方が断然速い。しかしながらこれ、打ち込み専用だから鍵盤数が25鍵しか無いのである。
 可愛くていいのだが、アレンジをする上であれこれ弾きながら試行錯誤するにはどうしても左手用(ベース用)の鍵盤が必要になる。庭の倉庫に88鍵のクラビノーバがあるのだが、わたしのゴミ屋敷部屋にはちとデカ過ぎて邪魔である。
 結局、押入れの奥から生後32年の「DX7」を引っ張り出した。骨董品だ。

「YAMAHA DX7」、 1983年5月の発売。シンセサイザー界に一大革命を起こした歴史的な楽器である。デジタルシンセという言葉はここから始まったのだった。
 通常だと「注文して半年待ち」のところを、泣きついたり土下座したり、はたまた脅したり事務所から手を回してもらったりして発売から1ヶ月後には手に入れた。セミハードケース付で26万円ぐらいだったような気がする。
 たかだか自宅での4チャンネル多重録音のために大層な買い物をしたものだが、その頃まともな音のする他社のシンセは100万円ぐらいしていたのだから、その価格は衝撃的なお買い得感ではあった。余談になるけれど、今なら1万円で買えるプログラマブル・ドラムマシンだって当時は「Linn・Drum」というのが有ったけれど60万円もしたのだ。
 ちょうどこの頃を境にデジタル楽器が一気に価格を下げてクオリティも格段に上がった。ちょっと頑張ればアマチュアでもプロ並の音質が得られるようになったのだ。
 ギターだけで曲作りをしているとどうしても限界があって、わたくし事だが、そういう意味でも大いに役立ったと言えるのである。オーバーかも知れないけれど、わたしはDX7で音楽を学んだ、といっても過言ではない。そして同志のように懐かしい。
 ただ……秋葉原の楽器店から手持ちで帰ってきたのだが、重い重い(25kgはありそう)友達だった。


 引っ越しの際に鍵盤部分に何かがぶつかって、2箇所折れて外れてしまっていたので、とりあえずそれをなんとかしなければ使えない。要所要所をデジカメで写真を撮りながら分解した。ネジが余ったり、部品が余ったりで今まで何度も泣いている。
 FS鍵盤という名の鍵盤。ヤマハは現代のキーボードでもこの方式を採用している優れものだ。一個一個の鍵盤に鉛のウエイトが丁寧に嵌め込んであって、タッチは軽いのだけれど感触的(?)には楽器なのである。
 固定部分の爪が割れて欠落していたのをプラスチック粘土と瞬間接着剤とで再現した。今回わたしはマジでドヤ顔である。「なんでも屋になれるかも知れん」と本当に思ったものなあ。

 
 触らなかった10年の間に、内蔵のボタン電池が100%消耗してしまったらしく、インターナル(本体内)のサウンドはすべて消滅してしまっているが、サウンドカートリッジが2個残っていたのでたいして問題はない。No.11のエレピサウンドさえあればわたしには十分である。それにアナログのステレオコーラスをかければ、気分はもうジョー・サンプルである。
 ほぼ10年ぶりに弾くキーボードだったが上手くもなく、それほど下手でもなく、ボケ防止の生涯学習のようである。わたしは同志を撫で回し「それでいいのだ〜」とバカボンパパの台詞に色々なメロディをつけて歌った。

 わたしにはちょっと傲慢な所があって「プロになれないんじゃ、やる意味が無い」的な考えをすぐしてしまうのだ。もうなれそうにはないけれど、自分でも絵や文学に対してそういうスタンスで取り組んできた。間違っていたという気持ちは無いが、世の中には叶わない夢の方が多いのだと言うことをやっと最近分ったような気もする。
 そう言えば……わたしがプロを目指す訳でもなく、100%趣味で何かをするというのは生まれて初めての事かもしれないなあ。同志よ、楽しくやろうぜ!