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白昼夢、PTSDかも知れない

非観光牧場だ

商売っ気無し

馬小屋もボロい

秋子ってあの女か?

子供の頃見た風景

ナチュラルそのもの

魔女の宅急便のジジ?
2015年08月04日(火)「 Day Dream 」

 職場の大将が、昔ホンダのレースチーム(バイク)のメカニックをやっていたとかで、最近わたしを盛んにそそのかすのである。
「50ccでもいいよ小林さん、マシンは俺が古いオフロードをレストアするから、一緒にエンデューロに出ようや!」
 エンデューロというのは林道や海岸など未舗装の自然道を走行するレースである。タイムレースと耐久レースがある。
 99.999%ぐらい冗談であろうと分ってはいるのだが「死ぬ前に馬鹿はやり尽くしておきたいなあ」などと、最近思ったりもするのだ。
「この歳と体力で6時間以上走り続けられるだろうか?」妄想と本気は紙一重である。どう転がるか本当に分らない。
 14〜15年前、ヤマハのDT−50というオフロードバイクで埼玉県中を走り回り、賀曽利隆さんを真似て峠越えなどを何回かした記憶がよみがえる。
「蕎麦屋バイクだけど今からちょっと走ってみっかな?」と、摂氏37℃の炎天下へスーパーカブで飛び出した。
 男は二輪、クサヤは七輪。このギャグ、超気に入ってんだけどなあ……。

 秋元牧場へ到着。数年前から時々フィールドノートに登場してもらっている牧場だが、いつ来てもまったくもって何ひとつ変わらない。お金をたくさんふんだくる母牧場やヤリ手女優がやっている牧場など、千葉県にはわりと多くの牧場があって、観光地化して大いに儲かっているというのに、ここ秋元牧場だけはいつ来ても貧粗だ。実に失礼だとは思うが、だからこそ何度も言おう、実に貧祖でボロい。
 誰が何の目的でやっているのかまったく見えない。現役引退した競争馬の介護施設だという噂もあるし、どこかの金持ちの道楽だという噂もある。公式には有限会社だが、その収入源がよく分らない。
 遊びに来た人々用の食堂と乗馬教室が有るにはあるが、そんなものは牧草の種代にもならないだろう。食堂だって牧場(まきば)蕎麦とジンギスカンBBQとソフトクリームだけである。牛が2頭と馬5〜6頭。従業員も5人いるかどうか? 
 大きなお世話には違いないが、秋元牧場に向かう度に、道々「まだ有るんだろうか」と心配になるのである。そして、それだけわたしが気に入っている訳でもあるのだ。


 牧場の中に一歩足を踏み入れると、急に昭和30年代の田舎にタイムスリップした気がした。
 農機具小屋の壁が破れていて、その穴からは黒い子猫が金色の目玉でわたしを見ている。わたしがポケットに手を入れる仕草などしようものなら、ニャーと近づいて来るのだ。
 馬のいななきが聞こえる。前足で板壁を蹴る音も聞こえる。ゴン、ゴンといった立派な重い音だ。外見は悪いが分厚い一枚板だけを使った小屋なのだろう。
「そういえば、ガキの頃にベニア板というものは無かった気がするなあ」
 わたしは「そうだそうだ、ソーダ屋のおじさんが死んだそうだ」などと子供の頃のお伽を笑いながら、桜の倒木に腰掛けた。雷にでも打たれて倒れたのだろうか、まんま残されている。株からは新芽が出ていて、おそらく来春にはその細い枝にも花が付くのだろう。
 
 後ろから干草を満載したトラクターがやってきた。運転手の他に、干草の上に腰掛けた少し頭の弱そうな男が乗っていた。
 五郎さんだった。50年ぶりにこんな所で再会するなんて、奇遇を通り越してもう何といっていいか分らない。
 五郎さんは父の受け持ちの子で(父は小学校教諭だった)毎日我家に牛乳を届けにきてくれていたのだ。差別用語だろうが、いわゆる“知恵遅れ児童”だった。しかし父は差別などすることなく、とても可愛がっていたのだった。そういう子供たちを集めて、いわゆる“特殊学級”というものができたのは、それから5年ぐらい後になってからだった気がする。当時は普通のクラスの中に一人か二人、そういう子供も混じっていたものだった。
 五郎さんの得意技は「チンチンをしごいて大きくすること」だった。体が大きいので、それもまた巨大で大根ぐらいはあっただろうか。わたしはまだ10歳になったばかりだったのでその現象を真似することもできず、巨大さにただただ圧倒されつつ、ものすごい手品だなあ、と感動していたものだ。
 五郎さんはトラクターの藁の上でも股間を触っていたようにも見えたが、案の定わたしには気づかずガハーガハーと笑いながら去って行った。

 牧場の中をさらにうろついていると、馬小屋の前にしゃがんでいる女を見つけた。24倍ズームカメラで覗いてみると前田恵子だった。前田はわたしと同じクラスで、後になって五郎さんと同じ特殊学級に入れられた子だ。
「パンツを脱げ」というとすぐに脱ぐので、上級生には人気(?)があったが、わたしは次の年に転校してしまったのでとうとう恵子のパンツの中は見られなかった。チャンスはあったのだが、父がことのほかそういうことに怒りを覚える人だったので、わざわざ危険をおかすことはしなかった。
 恵子とも、またまた50年ぶりの再会なので嬉しくなり、馬小屋の前まであいさつかたがたわざわざ会いに行くと、向うも覚えていて「パンツ見る? みちひろ」と聞いてきたので「パンツを見てもしょうがねえだろ?」というと「それもそうだー」と言ってズブッズブッと笑った。
 わたしが大学生の頃、ミカン山の中で殺されて裸のまま捨てられていたという噂を聞いたけれど、いま目の前に居るのだから、あの噂はガセだったんだなあ、とわたしは少し嬉しくなった。
「パンツはもう脱ぐな」
 わたしは、最後は妙になれなれしく手り振り、そう言った。
 不思議だったのは五郎さんも恵子もほぼわたしと同じ年代のはずなのに、二人ともまだ20歳ぐらいにしか見えなかったことだ。
 
 と、ここで突然目が覚めてしまった。
 わたしは桜の倒木に寄りかかるように座り込み、グッタリと眠ってしまっていたのだった。いやいや日陰でよかった、日向だったら熱中症で死んでいたところだ。それにしても不思議な夢だった。
 いや待てよ。というよりも、もしかするとさっき夢を見ていた間、わたしは実は死にかけていたのかも知れない。胸が圧迫されて息が吸えず、苦しかった記憶が脳にかすかに残っている。
 五郎さんと恵子は、なんらかの理由でわたしを呼びにきたのだ。まあ、どうせ“お迎え”を寄越すんなら、もうちょっとまともなヤツを寄越せと言いたいが、有りうる話ではある。


「オイオイオイ、今死んだらエンデューロに出られんやろ」
 大将はそう言うんだろうなあ。
 ん? 待て待て、ここもまだ夢の中かも知れない。